なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(98、復刻版)

今日は「黙想と祈りの夕べ通信(98復刻版)」を掲載します。

 下記の中に「信仰とはさめていることだ」という命題が出てきます。信仰の一面を言い表すものだと思います。けれども、信仰には同時にヘブライ人への手紙11章1節の「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することである」という言葉が示しているように、神のみ業への確信という面があると思います。この信仰のもつ一面は、神の未来の先取りでもあり、その信仰は私たちに、高橋哲哉と斉藤貴男の著書『平和と平等をあきらまない』(2004年、晶文社)のように、「あきらめない」希望の持続の精神を与えてくれるものではないでしょうか。

      黙想と祈りの夕べ (通信 98[-46] 2001・8・12発行)

 8月5日(日)は平和聖日でこどもと大人の合同礼拝でした。今年のような平和聖日の礼拝式は昨年度から行なっています。「ざんげの祈り」(リタニ-)は、昨年度の平和聖日の礼拝後にその一部の表現に適切さを欠くという意見が出て、今年度は一部書き替えました。「平和の祈り」(リタニ-)は昨年と全く同じです。今年は「証言」として「平和の祈り」の前に、先日神奈川教区沖縄交流委員会が主催しました交流会に参加して、沖縄に行って来られたYさんからその体験や感じたことを話してもらいました。彼女は大学の保育科に通っている学生で、7月末からこの夏の実習が入り、準備がなかなか出来ませんでした。私は、少なくとも前以て彼女の原稿を読ませてもらいたいと思っていましたので、ファックスが入るのを心待ちにしていました。いろいろ事情があって、彼女の原稿のファックスが入ったのは、当日の日曜日の朝でした。さっそく目を通しました。彼女の原稿には、長年教団の課題となっています「合同のとらえ直し」については全く触れられていませんでしたが、彼女の素直な沖縄体験が書かれていましたので、そのままで礼拝の中の「証言」で話してもらうことにしました。さて、今回のことを通しまして、若い人が現実に出会うことの大切さを強く感じさせられました。Yさんが「交流会」参加を希望してきたとき、「合同のとらえ直し」の問題について殆ど知らないであろう彼女の参加がどいうものであろうかと、いささか心配でした。でも、実際に沖縄に行った彼女は、多くのものを感じて帰って来ました。見て、触れて、考えることの大切さを、改めて考えさせられました。

 以上の私の発言に続いて、一人の兄弟から平和聖日の礼拝に参加しての感想が語られました。

 自分は平和聖日の礼拝に出席するかどうか迷った。聖歌隊の責任もあったので参加した。けれども、聖餐式のブドウ酒の杯は取れなかった。平和聖日の説教で家庭の平和と国家の平和を結びつけて語られたのには違和感があった。信仰にとって大切なことは、さめていることだと、以前亡くなったK牧師が説教で語っていたが、最近自分もさめていることの大切さを感じている。絶対平和主義で平和の大切さを訴えていくのも大切だが、現実主義で安全保障のことも考えなければならない。そういう時に、さめていることが必要だと思う。もちろん、酔うことも時には必要であろう。自分も先日イタリア人の「食べて、歌って、恋をする(恋をすることは酔うことに通じる)」ことに人間の基本的な生き方があるということを言ったが、それとは別に個人としてできる限界は、さめていることではないかと思う。太平洋戦争、大東亜共栄圏の建設、国体護持、ポツダム宣言受諾、二つの原爆が落ち、戦争のむごさを考えながらも、今の世の中さめていることが大切であると感じている。

 また一人の姉妹が発言しました。教会の友が今日夕方、夕顔の苗を一本持ってきてくれた。草取りしていた時に、見つかったからと言って。うれしかった。小さい時にいじめを受けていた一人の孫が、ディズニ-ランドに行く家族とは別行動で、ランドマ-クに来る芸能人のサインをもらうんだといって家に来た。今月の祈祷会で奨励されたOさんが、捜真の亡くなられた日野先生について話され、「いつも喜んでいなさい。感謝しなさい」との聖句を示された。とてもよい祈祷会だった。毎日静かに穏やかに過ごせて、感謝であると。