なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(62)

    マルコ福音書による説教(62)、マルコによる福音書14:53-65、
    

・前回はイエスの逮捕の記事から、イエスの孤独について学びました。イエスは自分を捕らえにきたイスカリオテのユダや群衆に対して、物理的には何の抵抗もしませんでした。そのイエス逮捕の場で、一つのハプニング起こり、「剣や棒をもってイエスを捕らえに来た群衆」が、「イエスに手をかけて捕らえた」とき、「居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を落として」しまいましたが、そういう実力行動はイエスの望むところではありませんでした。イエスは無抵抗でした。その無抵抗なイエスの孤独な姿の中に、私は、一面では毅然として神から自分に与えられた固有の道を妥協せずに歩むイエスを見ました。また一面では、彼を捕らえる人々の愚かな行動を一身に受けとめているイエスを見ました。人の側の憎悪や逃亡によっても断ち切ることの出来ない絶対的な関係を結ぶ者として、神は苦難のイエスにおいて「神われらと共に」いましたもう方なのです。その意味で、敵をも愛する者として苦難のイエスはあるのではないでしょうか。

・そのようなイエスの苦難において神の御業がイエスを苦難に追い込む人びとをも包み込んでいるのです。けれども、イエスを苦難に追いやる人々はそのことを知らずに、イエスを裁判にかけて有罪としてしまったのです。ここでイエスを裁判にかけているのはユダヤの最高法院です。その長は大祭司です。そして、この裁判の記事を読んでみますと、イエスが有罪と宣言されたのは、イエスが神の子、メシヤであると、はっきりと認めたということです。61、62節を、もう一度見てください。

・61節の最初のところには、「しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった」と記されています。沈黙のイエスです。イエスは逮捕されて裁判にかけられたわけですが、イエスを死刑にする決定的な証拠は得られませんでした。55節に、「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった」と記されています。このところの記述からも推し量ることができるように、ユダヤの最高法院においてイエスが裁判にかけられたときには、はじめからイエスを死刑にする方針が決まっていたのです。祭司長たちは、その方針にすべてのことを合わせようと努めました。そのためには、律法が死刑を命じるような罪状を、この法廷で確定しなければなりません。そのために不利な証拠を見つけようとして証言を求めたのです。けれども、そのような証言は得られませんでした。このイエス裁判の記事からしますと、ここまでは、通常の裁判で求められた証言が問題になっていると思われます。その証言も偽証でありましたが、それぞれの証言は食い違っていて、「二人以上の証言が一致しない限り、証言としては採用されなかった」ので、それらの証言は取り上げるに値しませんでした。

・「すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な(別の)偽証をしました」とあります。それは、エルサレム神殿をめぐるイエスの発言や行為について、故意に歪められた証言です。「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』というのを、わたしは聞きました」と。このイエスの言葉は、ヨハネによる福音書2章19節に、宮清めの際に語られたものとして記されています。そしてこのイエスの言葉は、ヨハネによる福音書では、「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉を信じた」と記されています。ですから、この言葉は、イエスの死と復活の預言として語られたものであります。エルサレム神殿に関しては、他にもイエスは、神殿が破壊され、エルサレムが滅亡する日が来るという、預言もしています(マルコ13章)。また、「神殿の両替人の台やハトを売る者の腰掛けをひっくり返されました」(マルコ11章15節以下)。そういうイエスの言葉や行動が、イエスは神殿を破壊しようとしているという彼らの証言になったのでしょう。けれども、彼らの証言はイエスについての歪められた印象に基づくものであったのでしょう。その証言は不一致で、それを証拠とするには、はなはだ不十分でありました。

・「そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。『何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか』。しかし、イエスは黙り続けて何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、『お前はほむべき方の子、メシアなのか』と言った」(60、61節)というのです。「イエスは言われた。『そうです。/あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る』。」(62節)。

・それまで沈黙していたイエスが、大祭司の問に、このように答えたというのです。大祭司は衣を引き裂いて言いました。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか」と。そのことによって、「一同は、死刑に処すべきだと決議した」のです。

・イエスは神を冒涜したのでしょうか。「イエスは一度でも神を呪ったでしょうか。神の名を軽んじてよいと教えたでしょうか。いな、彼は一般のユダヤ人よりも、また敬虔だと自認しているパリサイ人より、もっともっと神を恐れ、神のいましめに服従することを教えておられました。旧約の宗教は、彼によって軽んぜられず、むしろ成就しました」。あの両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返したイエスの宮清めにしても、神殿を重んじこそすれ、少しも冒涜してはいません。
それなのに、イエスを無きものにしようとしたのは、一つには指導者らのねたみであります。15章の10節をみますと、ロ-マの総督ピラトはそのことを読み取っていたのです。「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだとわかっていた」。「イエスの出現によって、自分たちの権威が失墜することを知っていたのです。この地位を保つためには、どうしてもイエスを殺さねばなりませんでした」。

・「もうひとつは、イスカリオテのユダの裏切りからも考えられるのですが、愛国者をもって自認する人々のイエスへの失望であります。イエスイスラエルの希望をになって国民的英雄になる道を、断固としてこばんでいました。イエス民族主義を否定しました。全人類的規模の隣人愛を説いていました。人々はそこで、期待を憎しみに替えてイエスに報いました」。

・さらに、もうひとつ考えられることは、ロ-マの権力を顧慮した政治的思惑であります。ヨハネによる福音書11章48節に「このままにしておけば、皆彼を信じるようになる。そして、ロ-マ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」。 「そのような、いろいろな要素が合わさったのです。けれども、それらはどれも決定的な力を持ちませんでした。

・問題は、イエスが自分自身を「神の子」と言ったことです。神についてきびしく教え込まれていたユダヤ人は、超越的な神について真剣に考え、そしてイエスが神であるということはどうしても受けとめることができませんでした。冒涜としてしか考えられませんでした。

・「大祭司は、衣を引き裂きながら言った。『これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。』一同は、死刑にすべきだと決議した。それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、『言い当ててみろ』と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った」というのです。

・この大祭司宅での最古法院の裁判は、当時のユダヤの常識ではあり得ないと言われています。まず夜最高法院の裁判が行われることはあり得なかったし、また大祭司の家で行われることもあり得なかったと言われています。しかしマルコ福音書では、今見たように記されていて、イエスを死刑にすると決めて、ローマ総督ピラトの下に引き出すのです。ローマの属州ユダヤでは死刑執行権はローマ総督にあったからです。

・マルコ福音書ではこの大祭司の庭でのイエスの審問の場には、イエスの弟子ペトロもいました。54節に、「ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火に当たっていた」とあります。このイエスの審問の記事はペテロの記事の間にあり、いわゆるマルコ福音書による、一つの物語の間にもう一つの物語がはさまるサンドイッチ形式になっています。自分を貫くイエスとイエスを知らないと三度言ってしまうペトロの対照的な姿が描かれています。

・裁判というものは、民主的な国家ではない国家の場合には、国家の暴力を意味することがしばしばあるものです。今までも政治犯として国家の暴力によって命を失った人々がどれだけいるか、世界の歴史をひもどけば、恐ろしい数になると思われます。現在でも世界には、そのような強権的な国家が存在していますの、政治犯として命を落とす人は今もいると思います。

・この大祭司宅でのイエスの審問も、ユダヤ自治機関である最高法院の一つの裁判と考えられますが、証言も合わず、偽証と、最後には大祭司の「お前はほむべき者の子(神の子)、メシアなのか」という問いに、イエスが「そうです。…」と答えたことが決定的な理由とされています。つまりイエスは大祭司によって引き出された自白によって殺されることになってしまったということになります。これは国家による無謀な暴力によるイエスの殺害に等しいのです。しかし、イエスは「…あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る」と言われて、国家権力をも超えた神の支配の実現を指し示しているのです。

・悪魔的な権力によって屈服させられてしまう弱さは、ペトロと同じように私たちの中にもあります。けれども、大祭司宅での審問の場面で、ほとんど沈黙しているイエスですが、その沈黙はこの世の権力への屈服ではなく、ただ一人の神への信頼と神の支配への確信によって、非暴力抵抗を貫いているのではないでしょうか。

ヨハネの手紙第一の著者は、キリスト者の読者に向かって「世と世にあるものを、愛してはいけない」と語り、「世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は永遠に永らえる」(ヨハネ第一2:17)と書きました。この大祭司宅の審問におけるイエスは、まさにその模範ではないでしょうか。ペトロは伝説によりますと、イエスの復活後再度イエスに従って生きる弟子として歩んでいきますが、最後は逆さ十字架にかけられて殺されたというのです。

・イエスが切り開いた道を私たちも私たちなりに辿っていきたいと願います。