なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(144)復刻版

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(144)」の復刻版を掲載します。

     黙想と祈りの夕べ通信(144[-39]2002・6・30 発行)復刻版

 今日は礼拝後に「日本基督教団と沖縄キリスト教団の合同のとらえなおしと実質化」について、I教会の沖縄出S牧師にお話ししていただきました。まことに厳しいく重い講演で、私自身司会者から質問をと向けられたにもかかわらず、まともな質問をすることができませんでした。沖縄が問いかけている、今日私たちが担わなければならない課題について改めに考えさせられました。私たちがこの日本社会の中で生きていくときに、誰と共に生きていくのかということとともに、天皇制とそれを支えている日本人の精神構造に対してはっきりと否を言える者でなければならないことを、S牧師は問いかけていたように思います。

 私は、S牧師のお話を聞きながら、沖縄の方で寿にいらっしゃるOさんのことを思い出しました。Oさんは、確か寿にある教会のメンバーではなかったかと思いますが、教区の集会がM教会で行われたときに、何回か来られた方で、集会の中で大きな声で発言する方です。寿には沖縄出身の方も多いと言われます。私は夏に行われる寿の夏祭りに参加したことはありませんが、その夏祭りの最後には沖縄のエイサーがあります。そういう意味でも沖縄の問題は私達の身近なところにもあると言えるでしょう。「合同のとらえなおし」の問題は、日本基督教団に属する教会と信徒にとりましては、私達の宣教と信仰の質へ問いであり、そのとらえなおしを日本基督教団という全体教会の制度にいかに反映させるかという問題でもあります。これからも私達の課題としていきたいと思います。

 上記の私の発言に続いて、伝道師から以下のような発言がありました。ある方が教会に尋ねてきて私が対応した。その方は熊本からサラ金の借金に追われ出てきて、日雇いの仕事を大阪で探したがなくて、父にも顔向けができずに、隣町まで役所で電車賃をもらい電車を乗り継いで、保土ヶ谷にいる兄を頼って横浜に来たと言う。その兄に電話したところ、断られ、うろうろするなら警察を呼ぶぞと言われ、どうすることもできず、教会に来た。熊本からここに来る途中、山口のカトリック教会で祈ってもらい、励まされてここまで来たが、どうすることもできないので、富士山の樹海にでも行って死のうと思うと。

 自分にはお金のことなので対応に限界がある。最後に祈ってくださいと言われ、神様がその人の後ろから支えてくださいと祈った。そうは祈ったが、その後祈りとは何だろうかと思った。祈った後、ラーメンでも一緒に食べませんかとその人に言ったが、死のうと言っている人にそのような声かけをした自分は、どこかに逃げの気持ちがあったのではないかと思い、ガックリした。家に帰って何も出来ずに布団に入って翌朝まで寝てしまった。翌々日に、その人が教会に来て、上野の方の友達に話したら、来て見ろと言われたので、これ行くと報告に来てくれた。また来てくださいと言って、その人を送った。学びを与えられた一週間だった。

 一人の姉妹は、4月の初めに突然訪ねて来た知人がお金を貸してくれと言われ、いつもは友情が壊れるのでお金の貸し借りはしないことにしているが、その異様な雰囲気に押され、自分に手を合わす彼女に、手を合わすのは神さまだけよと言って貸した。その後気にも止めていなかったが、6月に入ってその知人がお金を返しに来た。あのときの異様な雰囲気はなんだったのか思ったが、何事も無かったので感謝だ。
 
 もう一人の姉妹は、S牧師の話を聞いて、学生時代の沖縄出身の友人のことや以前読んでショックを受けた『太陽の子』という本を思い出した。先生のお話の間中自分の足がすくんでいた。かつて戦時下の時、教会を閉鎖されたホーリネス教会の牧師が私たちの教会の礼拝に来たとき、その出席を遠慮してもらったということがあったが、そのことを思い出していた。そのことを忘れずに私たちの教会が今後どういう信仰告白をもって歩んでいくかが私達の課題ではないかと思った。        


   
       隣人の罪をゆるすこと(『ルターの日々のみことば』より)

  「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆ   るして下さるであろう」。   マタイ6:14

 もし神が、あなたがたが隣人になすのと同じように、あなたがたにたいしてなし、あなたがたのすべての罪を全世界にむけて暴露したら、そのように感じるか考えてみてください。まただれかがあなたがたのすべての悪意を公表したとしたら、どうでしょうか。その時、あなたがたは、すべての人が黙っていてくれて、あなたがたのために弁解し、あなたがたの悪をおおい、あなたがたのために祈ってくれるように望むでしょう。しかし、実際は、あなたがたは、「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」(マタイ7:12)、という律法と自然に反対して行動しています。

 また、中傷者、陰口を言うもの、よこしまな裁判官の罪がゆるされると考えてはなりません。そこには、最小の罪もなければ、最大の罪もないのです。
 
 そしてもしあなたがたが、隣人の罪についてなにかしたいと望むならば、あの高貴なキリストの黄金律を守りなさい(マタイ18:15)。「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい」。ここで他の人にそれを言わず、ふたりの間だけにとどめなさいと言われていることに注目してください。

 この尊い働きをなそうと努力している人は、他に多くをしてしなくても、どれほどやすやすと罪を償うことができるでしょうか。それは彼が再び罪におちいったとしても、神は次のようにおっしゃるからです。「この人は隣人のとがをおおい、ゆるしてやった。それゆえ、すべての被造物よ、きて彼をおおいなさい。その罪はゆるされ、永遠に忘れ去られるであろう」。
                           単純な信徒のための主の祈りの講解