なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(67)

マルコ福音書による説教(67)マルコによる福音書15:42-47、
              
・イエスの受難と死をとりまく人物たちの中で、ゴルゴダの丘の場面の最後に登場してくるのが、「イエスガリラヤにおられたとき、イエスに従ってきて世話をしていた人々」(女性の一群)であります。そしてイエスの埋葬をかって出たアリマタヤのヨセフという人物です。今日は、これらの人物かから学びたいと思います。その前にイエスが埋葬されたということについて考えておきたいと思います。

・死者が埋葬されるということは、何も不思議なことでも、特別なことでもありません。私たちの場合、多くは火葬してから埋葬するわけですから、遺体をそのまま埋葬するのと違い、イエスの時代の埋葬と、同じ埋葬でも、その重みが随分違うのではないでしょうか。今日死者を葬(ほうむ)る行為は、忙しい生活を強いられています、生きている者の都合に合わされているように思われます。しかし、他の人の埋葬に立ち合う度に、私たちは、自分もやがていつか死んで葬られるという事実に向かい合わされます。その時、私の葬儀が執り行われ、火葬され、そして埋葬されて、墓地に入るのです。みなは家に帰っていき、自分独りは帰りません。

・「生きている人々の中で、自分の場所は余計な邪魔物として葬られるということが死ということである」と言われます。私は自分の職業生活から退かれた何人かの人から寂しさを打ち明けられたことがあります。特に自分が役職にあったときには、多くの人が訪ねて来てもくれ、自分の存在が重んじられている感じがして生きがいをもつことができたが、いざ退職して役職から離れてしまうと、手を返したように見向きもしなくなって、人は訪ねてくれなくなるというのです。人間は現金なものです。しかし、中にそういう自分のことをいつまでも憶えて、何かと訪ねてくれる人があると、大変うれしいと。

・「葬られる」とは、「消失(消えて失う)と消滅(消えて滅びる)の性格を死に与え、無常性(はかなさ)と死滅性(死に至る存在)の性格を人現存在に与えるものである」と言われています。「それは、人生とは何であろうか。それは墓に向って急ぐのである。人間は、自分の過去に向って急ぐのである。もはやそこには何の未来もない。この過去が、最後のものであろう。即ち、われわれの一切の存在は、やがて存在を終わり、消滅してしまうだろう。人間がいるかぎりは、われわれのことを記憶する何かの思い出は、まだ多分あるかもしれない。しかし、その人々もいつかは死に、それと共に、やがてこの思い出も過ぎ去るであろう。…これが〈葬られる〉ということである」。そしてこの墓の中で忘れ去られるということは、バルトによれば、私たちに対する神の審きなのです。「埋葬され、忘れられるということより他には、罪ある人間には如何ともなしがたいということは、これが罪に対する神の審きである」(バルト)。

・死と葬りとは、まさにそのような出来事でしょう。そして、今日のマルコによる福音書の記事によりますと、そのようにイエスも私たちと同じように葬られたのです。埋葬され、すべてが過去へと忘れ去られ、消滅してゆく運命にある人間の生を、イエスは私たちと全く同じ人間として生き、そして葬られたのです。人間が墓の中に忘れ去られるということが、交わりを破る利己的な人間に対する神の審きであるとすれば、イエスはその審きを引き受けられることによって、私たちの死の中にまで下ってきて、私たちと同じ経験をされたのです。むしろ、私たち全ての者が負うべき死を、私たちに代わって引き受けられたと言ってよいでしょう。

・しかも私たちは、後でイエスの埋葬された墓が空であったという報告を聞きます(マルコ16:1-20)。これはまさしく、神がイエスを通して私たちを見捨てたまま、ひとりぼっちの死を迎え、全ての人から忘れ去られていくことを望んでおられないということを示しています。神は私たちを神の子どもしていつまでも、イエスを長子とする兄弟姉妹の交わりの中に置きたもうことを欲しておられるのです。そこに神の救いの意志が示されています。

紅葉坂教会時代には、毎年イ-スタ-の日と11月の収穫感謝祭前後の日曜日の二回、三ツ沢の教会墓地で墓前の礼拝を守っていました。その墓地には、「わたしはよみがえりであり、命である」と刻まれた墓碑と十字架があります。その前で、墓前礼拝を行なっています。地上の生涯を終えて、私たちの所にはいない兄弟姉妹は、生者と死者を隔てる埋め尽くすことの出来ない溝によって、分け隔てられているのでしょうか。空虚な墓の事件は、私たちすべてを、復活の希望の光のもとに立たせます。生者と死者の隔ては、取り去られているのです。主にある兄弟姉妹のきずなは、死によっても切り離し得ません。復活の希望の光の中で、神の国の待望において、未来へと結びつけられているからです。

・そのような意味で、イエスの埋葬は、よきおとずれであります。私たち死すべき者が、その結末としての死に視線を注ぐことからも、死を恐れて目先の生活を過大視することからも自由な者として、約束の確かさの中で、今何を為すべきかを考え、自分の与えられている荷を発見し、それを背負うことへと促されるからです。

・さてここで、私たちは一群の女性たちとアリマタヤのヨセフについて考えたいと思います。

・イエスの十字架を取り囲む人々の中で、女たちにしろ、ヨセフにしろ、余り目立たない脇役のような存在です。しかし、彼らの人間性(遠くから心配そうにイエスを見ていた。イエスが埋葬された場所を確かめ、後で油を持ってイエスのからだに塗ろうとした。ヨセフはイエスを埋葬した)には、裏切り、逃亡し、嘲る人々と比べて、何かホットする一抹の明るさがあるように思われます。もちろん、彼らとてイエスを十字架に追いやった人々に対して、全身をかけて抵抗し、そのような行為を引き止めようとしたわけではありません。良心の痛みはあったかもしれませんが、イエスを十字架に追いやる人々の行動に対して、何一つ否の態度を表したわけではないからです。ですから、イエスは誰からも支えられることなく、殺されていったという事実には変わりありません。

・それでも、一群の女たちは、イエスの十字架を、逃亡して行った弟子たちとも異なって、「遠くの方から」ではあっても見ていました。そしてさらに、イエスの埋葬された場所を確かめ、復活の証人としての役柄を引き受けるようになります。これは「ユダヤ教や古代社会において、女性には低い役割しか与えられなかったことを思うとき、注目に値」します。弟子たちのうち誰一人としてイエスの埋葬の世話をせずに逃亡してしまっていたときに、アリマタヤのヨセフのような、イエスの弟子集とは違い遠いグル-プにあって、イエスに共鳴していた一人の人がこれを行なったことと共に、女たちやアリマタヤのヨセフには、旧約の「残りの民」のようなものを感じます。

・神の独り子イエスを十字架にかけて殺す人間たちの中に、復活への橋渡しの役目を与えられた人物が残されているということは、何と大きな神の配慮でしょうか。私たちの現状は、原始キリスト教会のように霊のリアリティ-に満ちた状態ではありません。「何故教会に来るのか」という問いが、満たされている者からは出ない問いという意味で、どんなに不当な問であることを知りつつも、現在の私たちの教会生活において私たちの心をよぎることを正直に告白しなければなりません。しかし、女たちやアリマタヤのヨセフが橋渡しして弟子たちに伝えられたイエスの出来事が、利己的な人間の死を神による兄弟姉妹という絶対的な交わりという命に生かされる出来事であり、私たちの「何故という問い」をかき消す出来事であるが故に、それを祈り求めたいと思います。