なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

牧師室から(41)

 今日は、私の裁判の第2回口頭弁論が午前11より東京地裁で行われますので、これから準備して出かけ

ます。

 「牧師室から(41)」を掲載します。


                   牧師室から(41)

 私は今月の八月五日(日)の平和聖日の後に、野田正彰さんの『戦争と罪責』を読み直してみました。

この著書は数名の元軍人の聞き取りに基づいて書かれたものです。ちょうど読み終えた時に、この著書の

中に出てくる尾下大造さんの文章が朝日新聞に載っていました。(七日朝刊、「無残な死、ひとりその無

念を思う」と題して)。尾下さんは戦後ずっと軍人恩給を拒否して来た方です。野田さんの本の中では、

このように記されています。

「彼は、大隊長に命令されて一人のフィリピン人捕虜を射殺した以外、虐殺にも強姦にも加わっていな

い。だが部落に入れば、鶏や豚を捕まえ、牛を殺して食べた。部隊から食料補給がないための行為と弁明

しても、強盗であることは変わりない。極悪非道を止めることもできなかった。恩給受給の年数に達して

いるとは、それだけ悪党の一味であった期間が永いということだ。こう考えて、軍人恩給を拒否してき

た」と。

野田さんは、「何故、このような正常な考えを持つ人がいるのだろうか。ほとんどの人々が異常で緊張し

ているとき、どうして良識を保ち得る人がいるだろうか」と問い、「尾下さんの語りには、常に相手の顔

があり、相手の人間性が伝わってもくる。それは、他の人との大きな違いである」と書いています。

この指摘が意味するものは、大変大きいと思いました。

                          2001年8月


 私は経済のことはよく分かりませんが、最近の不況、失業率の上昇に対する施策としてよくあげられる

雇用の拡大(IT産業への期待)や公共投資の増額や前倒しについて、そんなことで今後の社会の見通しが

立つのか素朴な疑問を感じている者です。この種の考え方の前提には、経済発展を目標にしてやってきた

今までの社会の現状肯定があるように思われます。その現状肯定に立って、ほころびをどうしたら繕える

かという発想です。その点まだ構造改革は現状の社会構造にメスを入れようとする訳ですから、より積極

的に思われます。けれども、その構造改革も、主に無駄を省き効率のよい形にという主旨のようですか

ら、例えば分配の問題までは射程に入っていないと思います。ですから、構造改革の断行によって失業者

が更に増えるという危惧は否定しようがありません。社会の経済活動の安定には、常に上昇することによ

っての安定と、もうこれ以上は上昇しないしさせないで、今あるものを誰かが特別多く取るというのでは

なく、出来るだけ公平に分け合うことでの安定とがあるように思われます。今私たちの社会に求められて

いるのは後者の道ではないでしょうか。旧約預言者によれば、神の前における公平と正義の確立です。

 不透明で未来への不安が濃厚な現在にあって、イエスの弟子たちへの戒め「蛇のように賢く、鳩のよう

に素直になりなさい」(マタイ10:16)を思い起こしたいと思います。

                                  2001年9月


 9月11日のアメリカでの事件以来、言いようのない暗い気分が私たちを襲っています。95年の阪神

淡路大震災とオーム地下鉄サリン事件が日本社会に与えた衝撃を思い起こします。それが何倍にもなった

世界大の事件が、今回の事件のように思います。私自身も心の均衡が崩れるような感覚に囚われました。

そのことが直接・間接に影響があったのでしょうか。説教で語るべき言葉への確信が今まで以上に揺らぐ

経験をしました。説教にはいろいろな要素があります。たとえば会衆にテキストから与えられたメッセー

ジをどう伝えていくかという表現の問題もあります。そのことにもよく苦闘していますのが、今回の自分

の揺らぎの原因は、メッセージそのものにどれほどの力があるのだろうかという問いでした。あんな事件

が起き、アメリカの報復が予想され、それが現実となった今、日曜日の礼拝で説教を語るということが、

何程の意味があるのか。直接人助けになる働き、たとえばたまたま9月に寿地区センター主催の講演会で

話された北海道の精神障がい者のコロニーべてるの家のような働きに携わることの方が、意味があるので

はないだろうか。この問いは、あの浩瀚な教会教義学を書くために生涯を捧げたバルトが、自分のやって

きたことがシュバイツアーがアフリカでやったことに比べたら何程の意味があるのかと晩年問うているの

に近いかも知れません。その意味で、今回の事件によって自分の存在と働き(生き方)そのものが問われ

ていると思います。
                                    2001年10月