なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(24)

        使徒言行録による説教(24)使徒言行録7:1-8、
              
・私たちが自らの歴史を振り返ることは、私たち自身が歩んできた道を振り返ることであり、現在の私たちがどこに立って、どこに向かって生きて行くのかを確かめることでもあります。

・聖書の人々は、人間の歴史の中に神の見えない働きを信じています。ですから、自らの民族の歴史を振り返る時にも、その歴史において見えない神がどのように働いておられるのかということを大切にして、歴史を振り返りました。そういう一つの民族の歴史を共有している人には、その中で働く見えない神の働きもまた、共有することができるのです。

・ステファノは、イエスと同じように捕らえられて尋問を受けました。しかし、その場面で、イエスの様には振舞ってはいません。イエスは、ピラトの審問においての大祭司らの訴えに対して、「もはやなにもお答えにならなかった」(マルコ15:5)と言われています。ところが、使徒言行録7章では、ステファノは、イエスと同じ情況に置かれているのですが、イエスとは違っています。様々な国からエルサレムに移住して生活していたギリシャ語を話すユダヤたちが、「民衆(民)、長老たち、律法学者たち」を唆し、ステファノを訴えた最高法院で、大祭司が、ステファノに「訴えの通りか」と問うています(7:1)。すると、ステファノはアブラハムから始まるイスラエルの民の歴史を振り返りながら、長々と説教をしているのです。

・このステファノの説教は、使徒言行録の著者ルカによる創作ではないかと思われますが、ルカは、ここにステファノの説教を置くことによって、パレスチナユダヤ人から、ギリシャ語を話すユダヤ人を介して、非ユダヤ人へとイエスの福音が宣べ伝えられていく教会の歴史を描こうとしているのだと思われます。このステファノの説教の後、使徒言行録ではステファノの殉教の場面が続きますが、そのところにサウロ(パウロ)が登場します。この時のサウロ(パウロ)はステファノの殺害に賛成していた、熱心なファリサイ派の律法学者サウロ(パウロ)です。その後サウロ(パウロ)は、キリスト教徒を捕らえては牢に送り込んでいましたが、9章であのダマスコでのパウロの回心の出来事が記されていて、その後パウロは非ユダヤ人である異邦人伝道者として活躍する記事が続いていきます。そういう展開を踏まえて、ステファノの物語が使徒言行録では、この部分に置かれているのです。

・私たち日本人には、共通の歴史体験に基づいた紀元神話に当る人物はいません。天皇イデオロギーからすれば、神武天皇ということになるのでしょうが、これは権力によって上からつくられたものです。イスラエルの民は王制が生まれる以前から、神ヤハウエとの間で契約を結んだ契約共同体として、共通の歴史体験を積み重ねて来ました。ですから、アブラハムは彼ら彼女らにとりまして、神話的人物でしょうが、民族の父であり、信仰の父と呼ばれ、慕われる存在でした。

・聖書に基づいて与えられた信仰に生きる者にとっても、アブラハムはその信仰者の群れの父であり、信仰の父と考えてよいと思います。ですから、アブラハムの信仰の経験は、イスラエルの民だけではなく、私たちキリスト者にとっても共通の財産として受け取ることが出来ます。

・ステファノの説教は、まず「兄弟であり、父である皆さん」という呼びかけで始まっています。ステファノは、この時最高法院の法廷にいた事になっていますから、この呼びかけは、最高法院の議員たちに向けられたものと考えられます。ステファノにとって、最高法院の議員たちは、同じ民族に属する人たちであり、ユダヤ人の指導的立場にある人々であり、敬意を表するに値する人たちだったと思われます。この挨拶に続いて、アブラハムが神の召しを受けて、メソポタミアからパレスチナに導かれてきたことに触れています。

・「わたしたちの父アブラハムメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現われ、『あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け』と言われました。それで、アブラハムカルデア人の土地を出て、ハランに住みました。神はアブラハムを、彼の父が死んだ後、ハランから今あなたがたの住んでいる土地にお移しになりました」(2-4節)。

・この部分には、創世記のアブラハムの物語とは違う記述があります。創世記のアブラハム物語では、カルデヤのウルからハランに移住したのは、アブラハムではなく、アブラハムの父テラです(10:31)。また、神の命令に従って、アブラハムがハランからパレスチナのカナンに旅だったのは、「彼の父が死んだ後」ではなく、父テラはまだ存命中のことです。おそらくルカは創世記のアブラハム物語とは別の伝承から、この部分を書いているのでしょう。

・ただここで重要なことは、アブラハムが、神の命令に従って、住み慣れた故郷と親族を離れて、神の示す見知らぬ土地に旅だったということです。このアブラハムの旅立ちを、ヘブライ人の手紙では、このように述べられています。「信仰によって、アブラハムは、自分の財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」(11:8)と。アブラハムが、家族や家畜を引き連れて、「行き先も知らずに出発した」のは、神の約束に全存在を賭けたアブラハムの冒険ではなかったでしょうか。信仰とは神の約束への信頼であり、その信頼によって、今自分の置かれた場所を出て、行き先はわからないけれども、旅立つことではないかと、このアブラハムの冒険は物語っているように思われます。

・ステファノがこのアブラハムの旅立ちについて語る時に、ステファノは、自分を尋問して裁いている最高法院の議員たちに向かって、私もあなた方も、このアブラハムイスラエル民の父祖として与えられているのではないかと問いかけているのではないでしょうか。と同時にルカは、このステファノの説教を読む使徒言行録の読者である1世紀末の教会に集う信仰者に向かっても、信仰の父アブラハムの旅立ちにこそ、信仰者の出発点(出自)があることを物語っているのではないかと思います。

アブラハムは、この旅立ちを神の約束の言葉に従って思い切って行いました。そして今ステファノが最高法院で裁かれているこのエルサレム、カナンの地パレスチナアブラハムはやって来たのです。使徒言行録にはこのように記されています。「神はアブラハムを、彼の父が死んだ後、ハランから今あなたがたの住んでいる土地にお移しになりましたが、そこでは財産を何もお与えになりませんでした。一歩の幅の土地さえも。しかし、そのとき、まだ子供のいなかったアブラハムに対して、『いつかその土地を所有地として与え、死後には子孫に相続させる』と約束なさったのです」(4,5節)。

・しかし、この神の約束が成就するまでに、アブラハムの子孫は400年もの長い間、奴隷として虐待を耐えなければなりませんでした。ステファノの説教では、「神はこう言われました。『彼の子孫は、外国に移住し、四百年の間、奴隷にされて虐げられる。』」(6節)と言われています。しかし、イスラエルの民を奴隷にする国民は、神が裁きます。「更に、神は言われました。『彼らを奴隷にする国民は、わたしが裁く。その後、彼らはその国から脱出し、この場所でわたしを礼拝する』」(7節)と続きます。

使徒言行録では、ステファノの説教とそれに続くステファノの殉教の後、エルサレムの教会に対して大迫害がおこったことが記しています(8:1)。ここにはアブラハムとその子孫のイスラエルの民に降りかかった困難が、最初期の教会の人々にも同じように降りかかるが、彼ら彼女らを虐げる人々にも、イスラエルを虐待した国民を神が裁かれたように、神の裁きが臨むことが語られているのでしょう。アブラハムの歴史は最初期の教会の人々の歴史でもあるというのです。

・さてステファノの説教では続けて、「神はアブラハムと割礼による契約を結ばれました。こうして、アブラハムはイザクをもうけて八日目に割礼を施し、イサクはヤコブを、ヤコブは十二人の族長をもうけて、それぞれ割礼を施した」(8節)と言われています。ここに「割礼による契約」ということが出て来ます。しかし、このことは、ステファノの説教の最後を読みますと、「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたはいつも聖霊に逆らっています」(7:51)と言われていて、割礼による契約の民であるイスラエルの民がかたくなで神に逆らっているというのです。また、彼らは「神から授けられた(天使たちを通して律法を受けた者なのに)律法を守ることをしなかった」(7:53)と、はきりといわれています。

・約束を信じて旅だったアブラハムの、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」(へブル11:1)信仰が、イスラエルの民の歴史の中で何時(いつ)の間にか形骸化して、割礼を誇り、契約を忠実に守ろうとする信仰の服従が失われてしまったということが言われているのです。契約への信頼を失って、割礼を誇り、選民であることを誇ることによって。

・そのことは、私たちの場合にも、いつもあり得ることではないでしょうか。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブル11:1)と言われていますように、神の約束を信じて、この地上にあっては旅人・寄留者としての生を貫くことです。洗礼を受けてキリスト者として生きることへと導かれたことは恵みですが、イスラエルの民における割礼と同じように洗礼にしがみついてしまったら、洗礼を受けたことそれ自身が人間の誇りになってしまうでしょう。洗礼は信仰の旅の途上で、繰り返し想い起し、その都度神の霊による洗礼を受けることによって、そこに示されている神の恵みの確かさに立ち帰り、人間と自然の全的解放である神の救済の約束を信じて、その時々を精一杯生きて行くことではないでしょうか。それが、私たちにとってのアブラハムの信仰の旅に思われてなりません。