なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

『教会とは」10月20日礼拝説教

            「教会とは」マタイによる福音書18章20節、
              

・昨日から今日にかけて、私たちは「船越教会の今を考える」というテーマで、修養会を行い、いろいろと提案したり、考えたり、意見を出し合ってきました。私たちの教会が、イエスの名によって集まっているコイノーニアとして、この時代と社会の中で、真実で豊かな証言をすることができる教会となることを願って、話し合い、また親しい交わりの時を過ごしてきました。

・私たち一人一人の日常の生活からすれば、この話し合いと交わりは、わずかの時間ですが、しかし、このような機会が、そうたやすくつくることができないということでは、大変貴重な時間を共有することができたことを、喜びたいと思います。

・その話し合いの中でも出ていましたが、私たちの教会は小さな集まりです。メンバーが20名にも満たず、毎週の礼拝も、多くて10数名の集まりであります。けれども、教会というのは、その規模の大きさや数ではないということを、先ほど読んでいただいた聖句が、明確に語っております。

・ここでは、2人、または3人と言われています。1人とは言われていません。そのことは、教会はたった一人では成立しないということなのです。少なくとも群れでなければなりませんし、どんなに人数が少なくとも、人の集まりでなければなりません。

・けれども、また、2人または3人が集まっていれば、それで教会が成立するかというと、それだけでは教会とは言えません。その中にイエスがいなければなりません。2人または3人が、正しくイエスの名によって集まるところでなければならないのです。とすれば、私たちは、数の少なさを嘆いたり、また、数が少ないことで、何も出来ないとあきらめてはならないと思います。数が少なかろうが、多かろうが、イエスを中心に、2人以上の人の集まりであれば、それは立派な教会と言えるからです。問題は、むしろ、数ではなく、私たちの真ん中にイエスがいらっしゃるかどうか、ということです。イエスの現臨がないとすれば、ただの人の集まりであって、教会(エクレーシア)とは言えないからです。

・イエスが現臨するということはどういうことなのでしょうか。それは、私たちの集まりには、私たちの中に、私たちに先立って導いておられるイエスという方がいらっしゃるということです。今日のテキストは、15節以下の文脈の中に出て来る言葉です。15節から17節には、このように記されています。

・「兄弟があなたがたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れないなら、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なさい」。 
             
・この部分を指して、これは戒規にかかわる内容が記されているところだと解釈する人がいます。戒規というのは、教会の交わりの中で、誤りを犯した仲間に対して、その誤りを認めて、神の前に悔い改めを促す教会の訓練規定と言われています。この個所では、確かに、教会(エクレーシア)の一員が「罪を犯した」場合、どうするかということが書かれています。まず、「二人だけのところで忠告しなさい」と言われています。何故二人だけなのかと言いますと、何よりも罪を犯した仲間がその過ちを認めて、悔い改めて赦されて、イエスのもとに立ち帰ってくることを願っているからです。そのために、おそらくイエスの名によって集まる教会の仲間の中で、みなから信頼されている者を立てて、情理を尽くして、罪を犯したその人を説得させるのでしょう。そして、「聞き入れたら、兄弟を得たことになる」と言われています。即ち、罪を犯すことによって、イエスの名によって集まる仲間の一人が、自分たちからも、イエスからも離れ去って行くのを食い止めることができたからです。

・もし、それでも聞き入れられなかったならば、今度は一人ではなく、「証人(一人か二人)を連れていって、説得しなさい」というのです。二人以上の証人によって、その人が罪を犯したことを証言すれば、その人は言い逃れができないからです。それでもダメなら、教会に申し出なさいと言われています。ここでの教会とは、私たちの場合では、教区とか教団ではないかと思います。そこでは何らかの審判のようなことが行われるのでしょう。ですから、「教会の言うことも聞き入れないなら」、その人はイエスの名によって集まる教会の一員とは言えないから、除籍にせざるを得ないというのでしょう。それが、「その人を異邦人か徴税人と同様に見なさい」という意味ではないかと思われます。ユダヤ人からすると、非ユダヤ人である「異邦人」も「徴税人」も罪人でありますから、ユダヤ人の仲間とは考えていなかったからです。

・私は、みなさんもご存知のように、現在日本基督教団から戒規免職処分を受けて、教師籍を剥奪されています。ですから、私が船越教会の牧師であることは、みなさんは認めて下さっていますし、教団の中でも多くの人が認めてくださってはいますが、今の教団の執行部とその執行部の考え方に同調する人たちは、私を船越教会の牧師とは認めていません。この戒規免職処分の問題で、私は教団の正教師の地位確認などを求めて裁判を起こしていて、現在最高裁に上告中です。この裁判に於ける教団側の主張の中には、戒規は、悔い改めを求める教会の訓練規定で、それ自身が教会の信仰的な教えである教義・信条に属するものだから、政教分離を理由にして、司法の関与すべき問題ではないというのがあります。

・そもそも私が戒規にかけられる理由となりました、洗礼を受けていない人にも希望すれば聖餐式に与らせるという聖餐式執行の問題は、私自身は戒規の対象とはならないと思っています。しかし、もし戒規の対象となったとしても、私が、この聖書の個所で言われているような説得を受けたかと言えば、そういう事は全くありません。ただ教憲・教規違反だからという理由で戒規免職処分になったのです。処分をしておきながら、私が「悔い改めて復帰を祈る」と教団は言っているのです。

・マタイによる福音書のこの個所で、この説得は、単なる裁きではなく、神の赦しを願うからこそ、罪を犯したその人が悔い改めるのを待っているのだと言われれば、私にも納得できます。罪を犯した仲間がいた場合、イエスの名によって集まる教会(エクレーシア)にあって、イエスだったらどうされただろうかを考えて、この個所のようにその人に臨むことは、教会にとってふさわしい在り方だと思うからです。

・さて、10節以下には、99匹と1匹の羊の譬えがあり、その最後に「そのようにこれらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と言われています。これをマタイ福音書では教会内倫理として考えているかも知れませんが、元来のイエスの譬えでは、この世における「これらの最も小さな者の一人が滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」という意味で語られたと思われます。とすれば、イエスの名によって集まる群れである教会は、このイエスの言葉がめざをしたことを大切にしなければならないでしょう。

・昨日から私たちが「平和宣言」の見直しを通して、この教会がめざすべき方向性を考えているのも、今のこの日本や世界の現実の中で、私たちはこのイエスの言葉を大切にして生きていきたいと願っているからではないでしょうか。

・「二人、または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」。

・「最も小さな者の一人が滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」との思いを共有し、最も小さな者の一人の命と生活を大切にしようと集まっている人々の群れの中に、イエスもその中にいることを見失ってはならないと思います。その意味で、教会は制度や建物ではありません。一つの教えを信奉する宗教集団でもありません。まして権威主義的な教団でもありません。神の御心である「最も小さな者の一人が滅びること」のないようにと願い、祈り、行動している人々の群れである人の集まりこそ、その中にイエスがいる教会と言えるのではないでしょうか。

・ですから、昨日iさんが、毎週金曜日の国会前の反原発集会に行くことが、自分にとってはそこが教会であり、そこが礼拝の場所だという趣旨のことを言われていましたが、潜在的にはそのとおりだと、私も思います。同じことは、寿での炊き出しでも感じます。反原発の集会や炊き出しだけではなく、私たちが日常生活を送っている場所で、神の御心である「最も小さな者の一人が滅びること」のないようにと願い、祈り、行動しようとしている人の集まりがあれば、どのような集まりにもそこにイエスが共におられるのではないでしょうか。家庭も、学校も、利潤追求を目的としている企業の職場ではなかなか難しいかも知れませんが、けれどもその職場でも、そこにいる人の集まりは教会であ得ますし、礼拝の場所という事が出来るのではないでしょうか。

・日曜日毎に、この船越教会のような建物に集まって私たちがともに礼拝するのは、この礼拝が、私たちの日常の場での礼拝に、私たちを押し出すことに繋がっていくからだと思います。日常の場で礼拝者として生きていくためには、そのためのガソリン、エネルギーが必要です。日曜日の礼拝はまさにそのためにあると言えるでしょう。私の青年時代には、日曜日の教会を「集められた教会」、日々の生活の場を「散らされた教会」という言い方をよくしていました。

・現在教団では改訂作業に入っていますが、1960年代にまとめられました教団の「宣教基礎理論」の中には、こういう言葉があります。「この世の問題を背負った信徒たちが、福音によって教会内で出会い、そのキリストにある人格的関係の中で、互いに背負う問題を理解しあい担いあうならば、そのことによって教会はこの世との連帯の中に生きているのであります。/このような教会生活の中で養われる信徒は、この世につかわされて、いつどこにおかれても、この世の人に人格的関係を挑むことができる体質をもつのであります。キリストはまことの仲保者として教会の中に立ち、信徒間の人格的関係を媒介されるとともに、信徒とこの世の人々との間にも立ちたまい、証しと奉仕と交わりの人格的関係をそこに用意してくださるのであります。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)/主の日の礼拝における説教と聖礼典は、以上のことと結びついて本来の大きな力を発揮し、聖書と祈祷の生活も、キリストの力によって、人格的関係を挑む勇気をわたしたちに与えてくれるのであります」

・「二人、または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。このことを信じ、教会の在るべき姿を求め続けていきたいと思います。