なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(393)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(393)復刻版を掲載します。2007年4月のものです。


       黙想と祈りの夕べ通信(393[-28]2007・4・8発行)復刻版
 

 受難週からイースターへの途上にあります。4月6日の金曜日の受苦日聖餐式と祈祷会は出席者6人で少

数でしたが、恵まれた時を過ごしました。まず受苦日のこの集いの内容をご紹介してみます。最初に「黙

祷」があります。次に「開式の交唱」で司会者と会衆とでヨハネ福音書ヨハネの手紙から選んで聖句で

の交唱があります。次に「賛美歌」、今年は305番を歌いました。そして「消灯」では、今年はヨハネ

福音書からイエスの受難物語を7回に分けて朗読しました。その間一本ずつ7本のローソクの灯を消してい

きます。最後のイエスの十字架死の記事の朗読の後に、最後のローソクの灯が消されます。ヨハネ福音書

のイエス受難物語を朗読していて、改めて気づかされたことがいくつかありました。私には特にイエス

ピラトの問答から、ああそうなのかという人間の尊厳についての権威の所在を再確認させられました。例

えばピラトの「お前はユダヤ人の王なのか」という問いに対して、イエスの答えはこうです。「わたしの

国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡

されないように、部下が戦ったであろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」(ヨハ

ネ19:36)。この言葉を改めて読んでいて、イエスは神以外に魂を売り渡すことをされなかったのだとい

うことを強く感じていました。今日の日本の状況でイエスの受難物語を読んでいますと、それこそ十字架

という出来事が切迫して感じられます。共謀罪が通り、反国家的な思想や行動が弾圧されるようになった

とき、キリスト教会もまた、私的な世界に信仰が埋没して公的世界においては一市民として何ら国家への

抵抗をすることなく、一生活者としてこの日本の社会に迎合していく限り、弾圧は免れるでしょう。イエ

スのように十字架にかけられることはないと思います。しかし、国家よりも一人一人の人間の命の尊厳と

生活の保障を大切に考えて、国家を批判するような行動をとれば、何らかの弾圧を受けることになるで

しょう。そんなことを思い巡らしていると、イエス時代のユダヤの国では最大の権力者であるローマ総督

ピラトの前に立って、ひるむことなく堂々と渡り合っているイエスの姿には感動させられます。それと共

に、権力の恐さに目を奪われることなく、このイエスを見つめ続けて、私たちも自分の命と生活を神にの

み捧げていくことができれば、権力のいいなりにならなくてもよいのではないかと思えてきました。消灯

の聖書朗読の後は、「沈黙」、「主の僕の歌~イザヤ書53章朗読~」、「受難讃美」でパウル・ゲルハル

トの血しおしたたる(311)を歌いました。その後「パンさきとひとつの杯による聖晩餐」(聖餐式

があります。それから式順には「祈祷(数名の祈り、最後に主の祈りをする)とありましたが、この部分

を司式している私がすっかり忘れてしまい、今回は割愛してしまいました。そして「終わりの讃美」22

8の「恵みにかがやき」を歌い、「祝福」「黙祷」をもって終えました。

 終わった後、少し話す時間がありました。Hさんが、イエスの誕生物語は物語として聞く機会も多い

が、受難物語は全体を物語として聞く機会がほとんどなかったが、今日はそれができてよかったと言われ

ました。また、Fさんは、受難物語にはパッション(情熱)があり、この物語を聞くことによって聞く者

に涙を誘う感情に訴えるものがあるが、日本の教会ではそういう面がかけているのではないか。歌舞伎な

どでは何度も演じられる同じ物語から、見るたびに感動を呼び起こされ、涙を流すということもよくある

と言われました。なるほどと思わされました。数名が集まって、受苦日に福音書のイエス受難物語が読ま

れて、しずかにそれを思いめぐらす集いがあちらこちらにできるようになったらと思います。生活の中で

聖書を読む習慣が大切にされていかないと、信仰の受肉化ということが、本当の意味で達成されません。

聖書は日曜日の一日、後の六日は聖書とは全く関係ない生活ということですと、信仰と生活の分離という

現代のキリスト者の陥りやすい落とし穴によって足をすくわれてしまうのではないでしょうか。 



              責めることから許すことへ (4月8日)


 私たちの最もつらい苦しみは、しばしば私たちを愛してくれる人や私たちが愛している人によってもた

らされます。夫婦、親子、兄弟姉妹、師弟、牧師と信徒といった関わりの中で、私たちは一番深く傷つい

ています。年をとってからさえ、しかも私たちが傷ついた原因となった人が亡くなってだいぶ経った後で

も、私たちはそのような関わりの中で起こったことを解決するための助けをまだ必要としているかもしれ

ません。

 「今のこんな私たしにしたのはあなただ。こんな私なんかいやだ、大嫌い」と言って現在の自分の状況

についての最も身近な人々を責め続けるというのは大きな誘惑です。自らの傷を認め、あの人が私に何を

したかによって生じた結果よりもはるかに大切なものを自分を信じ、受けいれることが、私たちに求めら

れています。神によって作られた自分こそ、私たちの存在の真の源泉であると心から言える時にのみ、私

たちを傷つけた人々を許す心の自由に到れるのだと言えましょう。

       
                     (ヘンリ・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)