なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(395)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(395)復刻版を掲載します。2007年4月のものです。4月15日の黙想

と祈りの夕べ通信(394)は、私がヘルニアで入院し、別の人がまとめてくれましたので割愛します。


         黙想と祈りの夕べ通信(395[-30]2007・4・22発行)復刻版
 

 先日イースターの説教の終わりで、私は日本の今後の状況について触れ、「例え憲法が改悪されるよう

になっても」というように、あたかもそうなるかのように既に決まってしまっているものとして語ったよ

うです。説教後にある方からその点を指摘されました。多分憲法を改悪させてはならない。そのためにど

うするかが今の私たちの課題ではないか、という思いではないかとおもいます。それは正にその通りで

す。私の言い方がよくなかったと思いました。ただ、私の中には、状況がどんなに悪くなろうとも、自分

が信じて立っているものを放棄しないで、そこに立ち続けることだけはしたいという思いの方が強くあっ

たのです。もう一つ、現在の日本のような超資本主義社会にける国家権力の力がどれほどのものであるの

か。かつてのような国民総動員を現在の国家権力が実際にできるものなのかどうか。愛国教育を施し、天

皇制を利用し、治安維持法の現代版共謀罪を成立させて、反国家のグループや個人を取り締まったとして

も、日本の国が現在の北朝鮮のような国に戻れるだろうかと思ってしまう何かが私の中にはあるのです。

もう今の社会では、国家なんて必要なくなっていて、死滅の道を緩やかに歩みだしているように思いま

す。実際、私たちの日常生活において、国家の存在は何の役にも立っていず、むしろ阻害要因そのもので

す。国防は国家によってという人もいるかもしれませんが、平和憲法を掲げて、アメリカ一辺倒でない多

角的な外交を民間で展開した方が、はるかに安全ではないでしょうか。米軍再編に組み込まれる方がはる

かに危険です。先日朝日新聞一面で、パソコンでセカンドライフを楽しむ人のことが出ていました。虚構

の世界というか、仮想現実の広がりの中で生きている現代人にとって、国家がどれほどの重みがあるの

か。だからこそ、政府が国家主義的にならざるを得ないのかも知れません。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。先日開催された教区平和フェスタについて性

差別特別委員会で話し合った。ある方から性差別問題特別委員会がやったステージについて鋭い意見が出

された。平和フェスタのステージは同性愛について先生役のAさんが、多様な原色のトレーナーを着た女

性の委員である生徒に教えるというものだった。それに対して、ある方が、無意識の内に男が先生、女が

生徒とパターン化して事柄をとらえていることに自覚的でなければならないという指摘をした。この頃若

い人の感性に驚かされることが多いが、今回もその人の視点は凄いと思った。ともすると、人がいなかっ

たからということで、気がつかない内に差別の再生産に加担してしまうことがある。恐ろしいことだ。最

近性差別問題特別委員会はメンバーの入れ替えがなされつつあり、若い方の鋭い意見によって、気づかさ

れることも多く、その交わりを喜んでいる。その若い友の感性を自分のものとし、今後抑圧や差別の現実

にもっともっと気づけるようになっていきたい。性に捕らわれないすべての人が平等で対等な、抑圧や我

慢がない関わりを大切にしていきたい。自分としては遅ればせながらの気づきだが、友があること、一個

教会を越えて点と点が結ばれ、豊かなものが実っていくように、性差別問題特別委員会を継続していきた

い。

 もう一人の方から発言がありました。銃による二つの殺人事件から、「人はなぜ人を殺すのだろう」と

考えていた。いろいろなケースがあり結論はない。しかし、背後に殺すしかないほど追い詰められている

痛みや苦しみがある場合もある。痛めつけられている人がどんなに訴えても相手がやめてくれない、人権

が無視されたり、命が脅かされている場合もある。自分の命、尊さを守ろうとする行為を止めろ、あなた

が死になさい、苦しみに耐えなさいとは言えない。もちろん殺すなかれ、であるが、本人にとっては殺す

ということしか解決がない場合もある。そうならないためには第三者の介入が必要ではないか。そこまで

考えて黙想の終わりが来てしまった。

 また、一人の方は、今年になってから穏やかな平安の日々を与えられていることの感謝を述べられた。     

 
          「欲しがる心を超えていく」   4月22日


 私たちは時々おもちゃ屋さんに来たこどものようにふるまいます。「これが欲しい、違う、あれが欲し

い、ううん、もっとほかのあれ」というように選択肢が多すぎて混乱し、全く落ち着きません。「そう

ね、では一つあげましょう。どれがよいか決めてちょうだい」と言われても、何を選んでよいのか分かり

ません。

 このようにたくさんの欲しい物の間で私たちの心はゆれ動いている限り、内なる平安と喜びをもって人

生を積極的に行き始めることは出来ません。だから、このような欲望にふりまわされず、どのような使命

を生きるよう呼ばれているのかを見出してゆくために、内と外との鍛錬が必要なのです。

        
                 (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)