なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(396)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(396)復刻版を掲載します。2007年4月のものです。


          黙想と祈りの夕べ通信(396[-31]2007・4・29発行)復刻版


 キリスト教の歴史では正統と異端という問題が付きまとっています。キリスト教教義においては、4,5

世紀頃までに三位一体論やキリストの両性論(神にして人であるという)が正統信仰として確立し、2世

紀頃からのグノーシスの流れは異端とされます。しかし、歴史学の影響による聖書の歴史的批判的研究が

進むに従って、教会の権威によって正典に取り入れられた聖書の諸文書と正典から外された外典、偽典の

諸文書は歴史的な文書としては同じように研究の対象とされるようになりました。その結果、教会の権威

によって判別された基準が、必ずしも歴史的なイエスの教えや振舞を正しく反映しているかどうかが問題

になってきました。外典の中の書物にもイエスの言葉や振舞を証言するものも見出されるようになったか

らです。そうなると、教会の権威による正典の基準は絶対的なものではなく、相対的なものであることが

明らかになりました。1960年代後半以降の日本の教会の歴史も、この歴史学の影響を受けてきました。そ

ういう中で信仰告白と教憲教規を基準にして日本基督教団の一体性を強く主張する正常化の人たちは、護

教的な意図から教会の枠組みが揺らいでいくに危機感をもっているのでしょう。4月29日に「聖餐を考え

る会」があり、その世話人の方から紅葉坂教会の事例報告をして欲しいと依頼されました。その時に、こ

の時期に開催される各教区総会への教団議長書簡には、未受洗者に開かれた聖餐をする者へ「処置」をす

ることを考えているという趣旨の内容があると、教えてくれました。昨年12月の常議員会で議長の山北

さんから、突然時間があれば教憲教規違反の聖餐執行者が常議員としての資格があるかどうか(私を名指

しして)懇談したいといわれました。その時は時間がなく懇談は流れましたが、現在の教団執行部とそれ

を支える正常化の人たちは、聖餐をターゲットにして教会の枠組みを強化しようとしているのでしょう。

福音理解、宣教理解、聖書理解に関わる聖餐の問題を規則でどうこうしようとすることは、そもそもでき

ません。ある意味で正常化の人たちの福音宣教に対する確信の無さの現われではないかと、私は思ってい

ます。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。夫婦でアメリカの東海岸を旅行してきた。ボ

ストン、ニューヨーク、ワシントン、それぞれ戦争に関わる歴史のある都市である。ボストンはアメリ

独立戦争と、ニューヨークは商業都市だが、国連本部がある。石の壁にイザヤ書2:4の言葉が刻まれ

ている(「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直し

て鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」)。ワシントンにはリンカー

ン、ケネディという暗殺された大統領の記念碑がある。リンカーンの「人民による人民のための政府」

は、農業資本を工業資本が叩きつぶしたわけだから手放しで喜べない。ケネディの「国民は政府からし

もらうことではなく、国民が政府に何ができるか」も、ベトナム戦争との関わりで、私は反対である。政

府は何を国民のためにできるかではないか。キング牧師の「私には夢がある」は小さなスペースに刻まれ

ていたが、それを見てホットさせられた。

 また別の人の発言がありました。先週の土曜日座間の「バスストップから基地ストップの会」が一周年

のデモをするとうので出かけた。座間に6月に装甲車が300台搬入されるという。辺野古の方は事前調査が

月曜日から始まるというので、朝4時に集まるようにという召集がかかった。私は気が気でない。月曜日

と水曜日国会前で座り込んできた。国会前には9条の会の人たちが2食抜きハンガーストライキをしてい

る。他にも座り込んでいるグループがあった。国民投票法案から始まって、何でこんなに国会に向かって

叫ばなければならないのか。前の方の話の中にもあったが、国民のための政治が行われているとは思えな

い。辺野古基地建設反対の国会前座り込みに来る人が少なくなっている。東京と神奈川のキリスト者の女

性たちで続けている。Tさんの影響もあって、信仰者の仲間がいることで励まされている。今まで余りに

無知であった自分自身から社会にしっかりと目を向け、この時代にイエスがいたら何をされるかを考えな

がらいきたい。基地のある神奈川も厳しくなってきているが、教会の中にも共有を広げていきたい。

 また別の方からの発言がありました。20~50代の女性たちと月一回聖書を読んでいる。そこにはプロテ

スタント、カトリックの信者、求道者、教会に行っている人、いない人、キリスト教には関心はないが、

あるいは神道に近い考えだが、とりあえず聖書は読んでみようという様々な人が集まっている。毎回ハッ

とさせられること、気づかされることが多く、私にとっては大変興味深い会である。しかし会を重ねるう

ちに、クリスチャンではないメンバーから「ちょっとしんどい」という声が上がった。「みんなが熱心す

ぎる」、「プロテスタントの人はキリスト教用語を多用しすぎ」などなど。これからもっと丁寧に対話を

重ねつつ考えていかなくてはならないと思うが、ちょっと行き詰まりを感じている。「信仰」がないと聖

書はわからないのだろうか?「信仰」という枠に閉じこもらず、広く開かれつつ、様々な人々と一緒に聖

書を読んでいきたいと思っている。

  もう一人の方の発言がありました。寿の作業所の食事作りに行き、とても大きな感動を受けた。最近

続けて3人の入所者の方がお亡くなりになり、遺影に花が飾られていた。食事が出来、配膳しようと一人

の人がテーブルをふきかけていたとき、大きなどなる声が聞こえた。それを職員の方が宥めたが、その宥

め方に感動した。争いごとではこれ以上小さな争いはないと思うが、どこにでも争いごとは起こるもの

だ。それをみんなの気持ちをよくつかんでいて収める職員の方は素晴らしかった。


        「私たちのいのちが他の人々の役に立つように」」   4月29日
 

 私たちがものを書かない理由にしがちなものに「独創的なものなんて何にもないよ。私が言うようなこ

となんて、もう誰かがとうに言っているだろう、しかも私なんかよりもうまく」ということがあります。

これは、書かないことの言いわけとしてはあまり説得力がありません。人間はみな、二人とない特別で独

創的なかけがえのない人であり、私たちが生きた人生を他のどのような人も生きることはないからです。

さらに、私たちが生きた人生は、私たちだけのためではなく、他の人々のためでもあります。ものを書く

ということは、自分の生活を自分自身のものとして受けとめ、また他の人々にも役立つものとして提供す

る創造的で元気を呼び起こす方法でもあるのです。

 私たちの物語には、語られる価値があるということを信じなければなりません。私たちは自分の物語を

よく語れば語るほど、その物語をもっとよく生きようと思うようになるということを発見するかもしれま

せん。

                  
                  (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)