なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

本日判決がでます。

 本日2月25日(月)午後2時、東京地裁103号法廷にて、私の裁判の判決が出ます。中間判決であれば、

裁判は続行し、実質審理に入っていきます。終局判決ならば、一審の裁判はこれで終結ということになり

ます。中間判決を期待しますが、私はこれから鶴巻から裁判所に向かいます。

 以下、支援会通信第5号に掲載しました、第2回口頭弁論での報告集会における原告である私の挨拶で

す。読んでくださっている方も多いと思いますが、ここに再録します。



        原告北村慈郎発言 2012年12月3日 第2回口頭弁論報告集会にて、

 北村です。一年で一番寒い時期であり、またアドベントに入って大変お忙しい時にもかかわらず、この

ように沢山の方々が第2回口頭弁論及びこの報告集会に集まってくださって、こころから感謝申し上げま

す。

 今私は70歳なのですが、実はこの12月3日は、私の70歳の最後の日に当たりまして、明日がきますと私

は71歳になります。そういう意味では、区切りのよい時に第2回口頭弁論が開かれ、不思議な巡り合わせ

を感じています。いろいろお話ししたいこともありますが、時間も切迫していますし、遠くから来ていた

だいた方々からのお言葉をいただきたいと思いますので、一言だけ申し上げさせていただきたいと思いま

す。

 この裁判におきまして、教団側から出てくる答弁書準備書面、先ほどの法廷での島林さんの意見陳

述、そして深谷松男さんの意見書を読んで、特に深谷さんの意見書からしますと、現在の教団ははっきり

と信条主義的な教会になっています。この意見書では、洗礼から聖餐が正統的な聖餐であるということ

で、その典拠として引用されています歴史的な文書は宗教改革の信条であり、驚いたことには例の「聖餐

は洗礼を受けた者が与る」と記されているディダケーからも引用されています。それにさかのぼる聖書の

諸文書については一切触れていません。ですから、日本基督教団は、現在の執行体制の中では明らかに信

条主義的な教会になったとしか思えません。この私の問題が起こった最初の頃からずっと思って来たこと

は、確かに一つの歴史的な教会である日本基督教団という教会が、信仰告白と教憲教規という約束事の中

で一つになって行くという面はないとは言えないとしても、日本基督教団という教会の在り方を問題にす

る時に、戦時下に国家権力によって合同させられたということはもちろん、聖書が全く出て来ないのは何

故なのだろうかということです。また、聖書の取り扱い方においても、今の教団の執行部の人たちは教義

的な聖書の読み方ですから、自分たちの神学を構築するときに、文脈を度外視して聖書の言葉をあちらこ

ちらから引き抜いてきて、都合のよいように用いています。本来ならばこの100年くらいになりますか

ね、歴史的・批判的聖書学の成果を踏まえて聖書を読む必要があるのではないかと思いますが、それを全

くしないでただ信条主義的に、聖餐の問題もそこに落としていくだけなのです。教会の歴史が逆戻りして

いるような感じで、これは今後のことも考えて、ここで踏ん張っていかなければならないとう思を、私は

ますます強くしています。      

先日、ここにも出席してくださっています大塩清之助先生からお手紙をいただきました。そのお手紙の中

に、「私のような経験(信仰をもって予科練)をした者は、そこから発することばがあるはずだと思い、

同封のような文章を、教会のホームページで発信しました」とあり、先生の文章が同封されていました。

これを紹介させていただきます。


 《第38回日本基督教団総会議員の皆様へ「石の叫び・二つ」》

  (一)「わたし考える人、あなた従う人」

 これが第二次世界大戦中の我が国と教団を支配している空気でした。その空気に反対すれば処罰されま

した。私は「日本の戦争はアジアを鬼畜米英から解放する聖戦である」という宣伝文句に付和雷同し、平

壌第一(日本人)中学五年を卒業と同時に洗礼を受け、海軍少年航空兵(予科練)を志願しました。近く

に迫った本土決戦の捨て石となるためでした。

〇敗戦後わかったことは、自分は隣人愛のために最善を尽くしたつもりが、実は侵略戦争という最悪なこ

とのために命をかけていたのだということです。

○その後わたしは、志しを同じくする人々と共に教団に戦責告白を提起し」、また「たった一人でも、主

の前におかしいと思うことは、おかしいと言おう」と覚悟をしています。これが今日ただ今のわたしの戦

責告白です。

○近頃教団総会では、全議案への○や×や、投票すべき人物の氏名などがすべて指定され~「自分で祈っ

て考える必要はないよ」とささやいている~「選挙マニュアル」が陰で配布されていますが、わたしたち

は、あの「わたし考える人、あなた従う人」という戦時下の上意下達の恐ろしい空気を感じます。

○あなた方が総会で 、選挙マニュアルを、ずらずらと書き写している後ろ姿を見る青年達が、かつての

わたしのように、最悪なことのために空しく命を献げることのないように、先輩の皆さんに切にお願いし

たいと思います。

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の

御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさ

い。」(ロマ12:2)

 (二)「聖書には二つの聖餐の原型がある」

一つ目は「最後の晩餐」(主の晩餐)です。二つ目はペンテコステの時の「パン裂き」です。最後の晩餐

の中での聖餐は、主イエスが十二弟子たちに自らのパンと葡萄酒を「これはわたしの体、わたしの血」と

唱えながら不信仰な弟子たちに配餐されましたが、その時もそれ以前にも「イエス・キリストの御名によ

る洗礼」が行われたとは、聖書のどこにも書いてありません。しかし他方、ペンテコステの時のパン裂き

(聖餐)は、洗礼直後に行われたと聖書に明記されています。

○つまり聖書には、イエス・キリストの名による洗礼なしの●主の晩餐の時の聖餐と、ペンテコステの時

の●イエス・キリストの名による洗礼の後の聖餐との●二つの原型があると考えられます。そしてこの二

つの形の聖餐は聖書の中に、いずれも福音として共存しています。日本基督教団も、この二つの形の聖餐

式が共存しています。それが何故いけないのでしょうか。オープン聖餐をする教会も、教会員となって伝

道に参加する決心のついた人に洗礼を授けるのではありませんか。聖書の福音が教会規則を規定するので

はありませんか。聖書の福音は神の御子イエス・キリストの死と復活による万人の救いです。全ての人

は、主イエス・キリストの十字架の下にいて、共に罪を赦され復活を約束されている兄弟姉妹、また神の

家族です。

 だから、わたしたちはお互いに足を洗い合い、赦し合い、共に食べ、愛し合うべきなのではありません

か。

 北村慈郎牧師は、教団の先頭に立って、聖書の福音を証ししている人ではありませんか。

                             2012年10月21日


 身に余るお言葉をいただいて恐縮しておりますが、関田先生と言い大塩先生と言い、大変教団を愛して

おられて、私の問題にも主体的に関わってくださっていることを感謝すると共に嬉しく思っています。先

生方と同じとは言えませんが、私も私なりに自分が所属しています教団という教会に愛着を覚え、イエス

の福音にふさわしい姿になって欲しいと強く思っております。

 ですから、この裁判についても、最後の最後まで頑張っていきたいと思っていますので、これからもど

うぞご支援をよろしくお願い申し上げます。