なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(468)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(468)復刻版を掲載します。2008年9月のものです。


      黙想と祈りの夕べ通信(468[-50]2008・9・14発行)復刻版


 この夏にはいろいろなことがありましたが、8月23日に妹が、犬の散歩中に頭を電柱に激突し、脳

挫傷を起こし、緊急入院し手術を受けましたが、既に脳死状態ということでした。それから10日ほど

で意識の戻らないまま帰らぬ人となってしまいました。7日日曜日夜通夜、8日月曜日葬儀告別式が妹

の家の上にある浄土宗のお寺で執り行われました。妹は父が46歳くらいの子でしたので、幼い頃は父

の溺愛を受けて育ちました。しかし、小学生の高学年の頃に母が筋萎縮症で寝たきりになり、小さい

ながらも母の世話もしてくれました。中学生の終わり頃母が亡くなりましたので、高校時代から現在

の妹の家のすぐ隣にあった姉の家で、姉の一人っ子と共に姉家族と一緒に生活しました。そこで連れ

合いと結ばれ、3人の子どもを与えられて、その場所で一生を過ごしたことになります。母が死んで

私は21歳の時に、家を捨てるようにして神学校に入ってしまったので、その頃妹は「慈郎ちゃんは勝

手だ」と言ったことがあります。その妹の言葉は、私の中にずっと響いていて、消えずに現在に至っ

ています。その妹が事故で急死してしまったわけですので、しばらくは何とも重い気持ちを引きずっ

ていかなければならないと思っています。

 上記の私の発言に続いて、以下の発言がありました。私自身もこの夏いろいろな行事 をこなして、

最後に義妹の入院、見舞い、葬儀と、自分自身でも整理できないでいる。例年の夏の行事、寿の学童

のキャンプ、日曜学校のキャンプ、フェミニスト神学の会が有った。それぞれ、準備の段階で前向き

にというよりは、少し後ろ向きの感じで参加した。始まればそれなりに動けるのだが、自分の年齢な

のか暑さも加わり、積極的になれないものが自分の中にあった。 義妹や障がいをもった子の死に出

会って、又宿題をもらった感じである。元気でいる者に わたしたちの分も生きてというメッセージ

が聞こえるようだ。私自身も何時 死を迎えるか分からないが、それまではと思う。今私は責任を引

き受けている仕事が いろいろあるので、ゆとりがない。もっとゆとりを持っていきたいと思う。貧

すれば 鈍すという諺のように、忙しさゆえ時間が貧した時心が鈍するのではと気になった。 ただ

し忙しい中にもいろいろな出会いが与えられる のは感謝である。夏期伝道実習のKさんとも、もっと

ゆっくり交わらなければ と思いながら十分できなかったが、最後の日に時間を作り話すことが出来、

違った出会いができた。 この夏は体力のせいなのか気力の衰えを感じたが秋からはゆとりをもって

歩みたいと思う。

 もう一人の方の発言が続きました。週報のコラムでTさんがレックス・ハンバード博士のことを書

いているのでびっくりした。博士の率いる宣教団の集会が日本武道館で開かれたとき、私も出席した。

それからずっと毎週テレビの放映を3年間欠かさずに見た。途中から性能は余りよくなかったが東芝

のテープデッキを買ってテープを取り、今でも聞いている。そのテープには亡くなった主人の声や、

飼っていたボクサー犬の吼える声も入っていて、今聞くと貴重なものになっている。北村先生がいら

っしゃってからは、聖書そのものを勉強する気持ちが強くなって、今までの伝道的なお話よりも聖書

研究会がとても大切になっている。ハンバード博士とは10年近く疎遠になっていたので、去年88歳で

亡くなったことを、Tさんのコラムで知ってびっくりした。 


        「信じ続ける」           9月14日


 多くの人が、意識するとしないとにかかわらず、一時的にせよ物事はよくなる、という期待を持っ

て生きています。戦争、飢餓、貧困、抑圧、搾取などは消え失せ、すべての人が一致協力して生きる

ようになるという期待です。これらの人々の生活と仕事は、そのような期待によって動機づけられて

います。生きている間にその期待通りにならないと、人はしばしば幻滅し、敗北感を味わいます。

 しかし、イエスはこのような楽観的な見方をしておられません。イエスは、ご自身が愛しておられ

る都エルサレムの滅亡を見通されたばかりでなく、残酷さと暴力、争いに満ちた世をも見通しておら

れました。イエスにとって、この世にはハッピーエンドなどありません。イエスの課題は、時の終わ

りが来る前に世のすべての問題を解決することではなく、どんな犠牲を払ってでも信じ続けるという

ことなのです。


                  (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)