黙想と祈りの夕べ通信(511)復刻版を掲載します。2009年7月のものです。
昨日は、国会前の辺野古新基地建設反対座り込みに行き、夜は寿地区活動委員会があり、寿地区活動セン
ターに行き、帰りに夕食を済ませて、船越教会に着いたのが午後10時前でした。
黙想と祈りの夕べ通信(511[-40]2009・7・12発行)復刻版
今日の聖書朗読箇所には、「あなたは兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある丸太に気づ
かないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向って、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてく
ださい』と、どうして言えるだろうか。」(ルカ福音書記者6:41,42)とありました。これは自己批判抜きの
他者批判はあり得ないことを語っています。「天に唾を吐く」という格言といいましょうか、言葉があります。
他者を批判するとすれが、その批判の刃が自分にも向けられているということです。私はこのことを名古屋の
御器所教会時代に強く意識するようになりました。名古屋の御器所教会には当時この他者批判=自己批判を実
践している人が何人かいて、彼らから教えられたからです。私たちは他者の批判はよくするのですが、自己批
判ということになりますと、なかなか出来ないものです。自分に刃を向けるということは大変しんどいことで
すので、自己中心的な私たちには難しいことのようです。けれども、本当にお互いに変わり合ってよりよりも
のを創り出していこうとするには、自分自身を問わなければなりません。自分が変わることによって、他者も
変わる。そういう相互的で創造的な関係に、お互いが立たないと、よりよいものを創り出すことは出来ません。
そういう意味で、私はこの聖句を大切に考えたいと思っています。
上記の私の発言に続いて一人の方の発言がありました。先日亡くなったプロレスラーの三沢美晴の話をした。
7月4日にファンによるお別れの会があった。親戚の法事があり、私は行きたかったがいけなかった。夜テレビ
でお別れ会の献花式の様子が放映されていて、それを観た。女子プロレスラの北斗アキラという人がいる、彼
女は現役時代鬼の北斗と言われ、相手の怪我のところを敢えて攻撃し、悪役を演じていた。いい人である。彼
女が三沢美晴はリング場で死ねて本望だと言った。でも私は断固違うと思う。生きて家族のもとに帰りたかっ
たに違いない。こういう悲劇は二度とあって欲しくない。薄々三沢の体調が悪かったことを周りの人は気づい
ていたが、三沢の気迫に押されて、リングに上るのを止めることが出来なかった。三沢の死をじわじわと重く
感じている。かつてセナの死やジョン・レノンの死にも、今回の三沢の死と同じような思いをもった。良い人
ほど早自死するのだろうか。話は変わるが、自分はこの教会に来て2年目になる。10年前には自分が教会に行
くなどとは想像できなかった。教会に来ている人たちは全体として優しい人が多い。また政治的・社会的関心
があり、沖縄の基地反対や寿のへの関わりを持つ人も多い。非政治的お笑い、ロック、プロレスなどの話は、
教会では殆どない。自分としては、政治しゃ社会への関心だけでなく、幅広くスポーツやロックなどの音楽の
世界にも関心をもっていきたいと思う。
続いて別の方からの発言がありました。先日性差別特別委員会と常置委員会の共催で セクシュアル・ハラ
スメントの講演会があった。講師には「みずら」や県などで相談員をなさっておられる方にお願いした。講師
は事例を挙げながら話してくれた。この社会が どんな場所も女性や子どもも誰でもが居心地のよい所であっ
てもらいたいとの発言が有った。性差別に関わっていると、強い者が居心地がよくて、弱い者はそうではない
場合が多い事に気付かされる。教会もひとりひとりが対等で差別されない場であって欲しいと訴えられている
気がして嬉しかった。セク シュアル・ハラスメントの場合、女性が訴えることが多い。しかし男性にも相談
窓 口が必要ではないか。男女を問わず強い者が弱い者をいためつける現実が多くなっているからである。被
害を受けて相談した時に、あなたがそんな所に行くからよなどと不注意のように言われることがある。そう
すると、被害者は自分を責めてしまい相談できなくなる。講師は、相談を受けたとき、まず あなたは悪くな
いのよと言葉をかけるようにしていると言われた。そしてこれからあなたはどうしていきたいかを聞いてい
くという。ある意味で神から同じ視線を受けて、あなたは悪くないのよとおっ しゃってくれているのではな
いだろうか。生きていいのだよ、みんなが生きていっていいのだと。みんなが気持ちよく生きていける社会
を目指していきたい。
更にもう一人の方の発言がありました。私もセクシュアル・ハラスメントの講演を聞かせてもらった。力関
係と保身ということを講師は言われた。考えさせられ、反省させられた。相談窓口で危険なことは、その人
を評価してしまうことであると言う。人から相談された時、自分もそうしてしまっているのではと反省させ
られた。問題は誤解を解いていくことであり、そのためには共感ガベースになる。目撃している人がいない
場合、どちらが強いというわけではないが、味方する人が多いか少ないかによって、強い弱いが決まるのも
矛盾を感じる。どうしたらよいか考えさせられた。
「世の食物となる」 7月12日
イエスがパンを取り、祝福し、割いて弟子たちに与えられた時、イエスはご自身の生涯をこれらの行為
に要約されました。イエスは永遠から選ばれ、ヨルダン川の洗礼で祝福され、十字架の上で裂かれ、この世
界にパンを与えられました。選ばれ、祝福され、割かれ、与えられる、これが神のみ子、キリスト・イエス
の聖なる旅路です。
司祭がパンを取り、祝福し、割いて「これはキリストの体」と言って与える時、キリストの生涯にならう
人生を送る決断を言い表します。私たちもまた、選ばれ、祝福され、割かれた者となり、世の食物となりた
いと望みます。
(ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)