なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(561)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(561)復刻版を掲載します。2010年6月のものです。


       黙想と祈りの夕べ通信(561)[Ⅺ-39]2010・6・27発行)復刻版


 今日6月23日は沖縄慰霊の日です。昼のテレビでも沖縄での集会の様子が放映されていました。今日は

そのことだけを述べて、先程朗読しました詩編139編についてお話したいと思います。この詩編は先程の

朗読でもお分かりのように、私たちのことを私たち以上に究めておられる神について記されています。

1節以下には「主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。/座るのも立つのも知り/遠く

からわたしの計らいを悟っておられる。/歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じてお

られる。/わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。/前か

らも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いてくださる。/その驚くべき知識はわたしを超

え/あまりにも高くて到達できない。」(1-6節)とあります。また、「あなたは、わたしの内臓を造り

/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。」(13節)。「胎児であったわたしをあなたの目は見て

おられた。/わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。/まだその一日も造られないうちか

ら。」(16節)とも言われています。このようなこの詩編の言葉から、私たちの存在はとことん神の手

の内にあるということを知らされます。その私たちの存在がたとえどのようなものであったとしても、

たとえば苦しみのどん底にあったとしても、私たちの存在は神に究められ知られているのだというので

す。とするならば、私たちが自分自身の悩みを一人で抱えて苦しんでいると思っているときにも、神は

そのような私たちを私たち以上によく知っていて、悩み苦しむ私たちを抱擁して私たちの悩み苦しみを

御自身の体で受け止めていてくださるというのです。この私を究め、知っていてくださる方の存在は、

私たちの生にとって実に大きな意味をもっているのではないかと思っています。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。逆流性食道炎のため梅雨の時期、食欲が減

退し夏に向って不安である。そのような状態のときは、難しいことは考えたくない。今はちょうどサッ

カーのワールドカップ南アフリカで開催されており、サッカーの好きな友人が誘ってくれて、大型の

ハイビジョンテレビで放映しているお店に一緒に行った。スロベキアとパラガイの試合を放映していた。

雑談をしながらゆっくりでき、楽しい時をもてた。最近の生活はサッカーを観たり、美術鑑賞したり、

からだにはいい。気が休まるからだ。胃の状態がよくないので、ざっくばらんな交わりがいい。

 もう一人の方の発言がありました。私は沖縄の慰霊祭をテレビで観て、感じたことを話したい。昨日

関西のキリスト教女性センターが発行している機関紙に、沖縄、基地について書いてほしいと編集の方

からメールが来た。そのことを考えながら、今日テレビで平和の礎で花などを捧げ、刻まれた名前を撫

でている遺族の方々が映し出されているのを見た。慰霊祭では首相の管さんもメッセージを語り、沖縄

の方々の犠牲に申し訳ないと言いながら、日米共同声明を実行し、辺野古に基地を作らせてくれという

ことを言っているのには怒りを感じた。どうしてそんなことを言えるのか。帰れ、帰れと、訴えるおじ

いの姿がニュースでは流れた。辺野古のおじい、おばあのことを思う。平和を求めて基地などいらない

と訴え続けていくことが、自分の責任ではないかと思わされつつ、私に出来ることは、国会前の座り込

みくらいだ。大和の人間として菅さんと同じような体質を持っていると自覚する。沖縄のことを書く資

格がない気がしている。


             「霊的な勇気」     6月27日

 勇気は危険をおかすことと関係しています。グランド・キャニオンをオートバイで飛び越える、ナイ

アガラの滝を樽で渡る、ニューヨークの世界貿易センタービルの塔の間を綱渡りする、大洋をボートを

こいで横断する、これらは勇気ある行動と呼ばれます。というのも、人々はこれらのことをするのに命

がけだからです。しかし、これらの向こう見ずの行動のどれ一つとして、存在の中心から来るものとは

いえません。これらはみな、身体の限界を試し、有名になって人々の注目の的になりたい望みから来る

ものと言えます。

 霊的な勇気は全く異なります。それは、名声と人気を失うかもしれないという危険をおかしても、最

も深い心の望みに従うことです。永遠のいのちを得るためには、束の間のいのちを失うことも進んで受

け入れる心構えが求められています。


                  (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)