なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(568)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(568)復刻版を掲載します。2010年8月のものです。

 下記の通信を読んで、4年前に辺野古に行ってから、その後一度も辺野古には行っていないことに気

づかされました。この4年間、私の戒規免職撤回と裁判に集中せざるをえなかったこともあり、辺野古

や高江に自分の体を置く機会を作れませんでした。新しい年には、もう一度辺野古や高江に行きたいと

思います。


       黙想と祈りの夕べ通信(568)[Ⅺ-45]2010・8・15発行)復刻版


 8日の日曜日は船越教会で礼拝を守り、代務者として役員会の議長を務めて、紅葉坂教会に帰ってきま

した。9日(月)から12日(火)までは、連れ合いと沖縄に出かけました。今回の沖縄行きの第一の目的

は、辺野古の座り込みに参加することでしたが、もう一つ、私が6月末まで4年間事務局長を務めました

「沖縄から米軍基地撤去を求め、教団『合同のとらえなおし』をすすめる連絡会」という教団有志の会か

ら、辺野古のテント村で責任を持っていますヘリ基地反対協と沖縄教区への献金を届けるためです。責任

を果たして無事に帰ってきました。今回は1日目の夜に名護のホテルに到着する予定でしたので、辺野古

のテント村の座り込みには2日間しか参加できませんでした。しかも、その1日目の午後は、平良修さん、

悦美さんご夫妻が、テント村での昼食後自動車で、名護教会、兼(かね)次(し)教会を案内してくれた上、

世界遺産今帰仁(なきじん)城跡にも連れて行ってくれました。今までは、沖縄を観光する機会は殆ん

どありませんでした。伊江島の平和学習会や辺野古での座り込みの後、時間があった時に国際通り、首

里城、南部戦跡くらいには行きましたが、その他のところには行ったことがありませんでした。平良ご

夫妻の好意によって、名護と辺野古、ヤンバルの高江だけでなく、その他の沖縄本島北部の景色を車か

ら眺めることができました。また、最後の日の1日は、朝9時半に、以前高座渋谷教会の牧師をしていて

現在那覇中央教会の牧師をしていますKさんが車で迎えに来てくれて、その日は午後5時に那覇空港に到

着するまで、1日沖縄本島中部から南部にかけて、案内してくれました。佐嘉眞美術館、嘉手納基地、読

谷座喜美の陶芸村、沖縄キリスト教大学、佐敷教会、知念岬、魂魄の塔、糸満教会などです。

 座喜美の陶芸村には、教団の教会の信徒の方が登り窯を構え、家族で横田屋(ゆくたや)窯(がま)を営

んでいます。Kさんは、その窯主のCさんご夫妻と面識があり、時々訪ねている関係のようで、私たちを

そこに案内してくれました。私が教師委員会による戒規免職を受けている当事者であると、Kさんが紹介

したときには、Cさんはびっくりした様子でした。しかし、2時間ほどお話をしましたが、Cさんは大変誠

実に教団の問題にも向かい合っておられる方でしたので、私の話をよく聞いてくれました。私は、信仰

者としてその人が置かれた状況という日々の生活の中で聖書と向かい合うことの大切さを感じている者

です。そのような信徒の方は、自分の生活の場から、他者の言うことに対しても、ただ無批判に受け入

れるのではなく、批判的に聞く姿勢を持っているに違いないと思っています。Cさんもその一人のように

思えました。そいう自立した信仰者である信徒の存在は、組織としての教会にとっても大切な存在であ

るはずなのですが、そのような信徒の方が、ともしますと組織としての教会から離れてしまうことが多

いように思われます。残念なことですが、組織としての教会の硬直化がそうさせているのでしょう。C

さんは、所属している教会を愛してずっと関わり続けていく方ではないかと思いました。

一緒の一緒を求めるあまり、結果的に多様性を排除し、硬直化が起こるのではないでしょうか。やはり

「バラバラの一緒」がいいようです。      


           「隠れ続ける方法」      8月15日


 もし本当に、霊的な生活に隠れた部分が不可欠であるなら、ごく一般的な生活のただ中において、ど

のようにすれば隠れたままでいることが出来るでしょうか。隠れた姿を保つ特に重要な方法二つありま

す。それは、一人になることと貧しさです。孤独は私たちを神と二人きりにしてくれます。私たちはそ

こで、自分は人々に属するのでも、自分を愛し心にかけてくれる人に属するのでもない、ただ神に、神

にのみ属するものであることを経験します。貧しさの中にある時、私たちは自分自身の、そして他の人

々の弱さ、限界、援助の必要を経験します。貧しいとは、成功もなく、名声もなく、力もないことです。

しかし、神はその貧しさの中で、ご自分の愛を私たちに開き示されます。

 孤独と貧しさとは、私たちの生き方が隠れたものであることを守ってくれます。


                   (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)