なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(567)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(567)復刻版を掲載します。2010年8月のものです。

 566号は割愛します。釜ヶ崎の本田哲郎神父のミサに触れた記述がありますので、ご迷惑に

なるといけませので割愛します。



       黙想と祈りの夕べ通信(567)[Ⅺ-44]2010・8・8発行)復刻版


 8月1日の平和聖日の午後に、神奈川教区平和集会が当教会を会場にして行われました。平和集会の

講師は沖縄の平良修さんでした。私は、当日の教会の礼拝の報告で、平良修さんもお年なので、おそ

らく平良修さんの話を聞く機会は、神奈川にいる私たちには、これが最後ではないかと申し上げまし

た。平良修さんには大変失礼ない言い方でしたが・・・。そのこともあってか、平和集会には当教会の

方も多く参加しました。平良修さんは、沖縄が琉球王国という独自の文化をもつ、独立国であったと

いう歴史から説き起こし、薩摩による支配以来、何回かに渡って、日本国家による南の軍事的防波堤

としてその役割を担わされ、太平洋戦争では本土防衛と国体を守るために切り捨てられた経験をして

きた沖縄の人々の思いを、諄々とお話されました。平良修さんの話を聞きながら、国家の都合によっ

て、その都度とかげの尻尾のように切り捨てられる経験を繰り返し味わってきている沖縄の人だから

こそ、語ることができるその思いが重く私の心に響きました。お話が終わって、いくつか質疑があり

ました。その中に、「日本の国の安全保障上米軍基地は必要なのではないかと思うが、先生はどう思

われるか」という質問が出ました。平良修さんがその質問に答える前に、関連発言を求めた人が、韓

国潜水艦が北朝鮮による攻撃で沈没したと言われる事件が起きて、日本では普天間基地移設の問題が

抑止力を理由に辺野古案に戻ったということもあり、見えないところで抑止力にしても、外部からの

攻撃にしても、何か意図的につくられたようにも思える。だから、外部からの攻撃という危機意識に

よって安全保障上米軍基地が日本に必要だという考えはおかしい、と発言された。平良修さんは上記

の質問に答えて、以下のように言われました。もし日本の安全保障のために米軍基地が必要だと言う

のであれば、米軍基地を沖縄に押し付けないで、あなたの県にもっと持ってくるようにすべきではな

いですか。日本の米軍基地の75パーセント近くを沖縄に押し付けておいて、日本の安全保障上米軍基

地は必要であると言うのは、あまりにも沖縄を無視した発言ではないか、という趣旨のことを言われ

ました。この平良修さんの発言に、私ははっとさせられました。安保条約や日本の安全保障の問題を

出してきて、米軍基地撤去は理想論だという批判を結構聞くことがあります。たとえば国会前の辺野

古新基地建設反対の座り込みをしている時に、時々座り込みをしている私をからかうかのように、安

全保障の問題を持ち出してきて、米軍基地が日本になかったら、日本の安全保障をどうするんだと、

論争をしてくる人がいます。私は、憲法9条による世界平和の構築が、日本の国が進むべき道だと、今

でも思っている者の一人ですので、戦後の自民党によるアメリカ一辺倒の外交姿勢を批判し、日本の国

は、憲法9条を前面に掲げて、等距離外交による諸外国との平和条約締結をめざすべきではないかと考

えている者です。ですから、そういう正論を語ってきましたが、平良修さんが言うように、そんなに安

全保障が重要であり、米軍基地が日本に必要だと思うならば、あなたの住む場所に沖縄から米軍基地を

移設したらどうですか、という対応があることに気づかされました。大体日本の安全保障上米軍基地

が日本には必要だと言う人は、沖縄の圧倒的な基地負担をそのことで正当化しているように思います。

自分の住んでいるところに基地ができ、基地公害をはじめ、米軍による暴力事件の頻発ということにな

ったら、どうでしょうか。また、その米軍基地からイラクアフガニスタンに米兵と爆弾を載せた飛行

機が飛び立っていき、戦争をするということになったら、どうでしょうか。それでも、日本の安全保障

上、米軍基地が日本にあるのは仕方ないと言えるでしょうか。私たちは他者の痛みを自分の痛みとして

感じる感性が鈍くあります。ですから、他者に犠牲や痛みを背負わせておいて、勝手な論を展開して恥

じない、まことに自己中心的存在です。相手の立場に立って物事を考えていくことができるようになり

たいものです。


          「無条件の証し人」       8月8日


 平和と喜びなしに語られる時、よい知らせは悪い知らせとなります。イエスの赦しと癒しの愛を満た

されない心で宣べ伝える時、私たちは偽の証し人となります。イエスは世の救い主です。私たちはそう

ではありません。私たちは、神が私たちのためになさった偉大なみ業を、常に私たちの生き方で、時に

は言葉で証しするようにと召されています。けれどもこの証しは、見返りを期待することなく、進んで

与えようとする心から生まれ出るものでなければなりません。

 私たちに対する神の無条件の愛を信じれば信じるほど、私たちは、内面的にも外面的にも条件を付け

ることなしにイエスの愛を宣べ伝えることが出来るようになってゆくでしょう。


                  (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)