なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(6)

     「手綱を振り切る」エレミヤ書2:20-15、2015年4月26日(日)礼拝説教

・今日読んでいただいたエレミヤ書の初めの所に、「軛」と「手綱」という言葉が出てきますが、これは動

物と人間との関係で、人間がその動物をコントロールするための道具です。

・20節の最初に、エレミヤは、「あなたは久しい昔に軛を折り、手綱を振り切って、『わたしは仕えることは

しない』と言った」(20節a)とあります。ここで「あなた」とはイスラエルの民を指していると思われます

が、イスラエルの民が神ヤハウエに背いている状態を、「あなたは久しい昔に軛を折り、手綱を振り切る」と

言い表しているのであります。

・「軛」とは、ご存知のように牛などの動物の首につけて、農機具を引っ張らせて畑などを耕したり、車を引

くための道具です。軛を動物につけることによって、人間が動物の動きをコントロールするのであります。軛

のつけていない動物は、人間の意志を体現して動くことはありません。動物の本能の赴くままに勝手に動くに

違いありません。

・手綱もまた同じ役割をします。馬に人間が乗って手綱で馬の動きをコントロールするのです。「手綱さばき

が良い」とは、馬の乗り手が馬を自分の意志通りに自由に動かすことが出来ることを意味します。私が今住ん

でいますところには、近くに牛を飼育しているところがあり、そこに数頭の馬がいて、狭い馬場ですが、乗馬

の練習をしているところがあります。天気の良い日などたまにそこに行って、乗馬の練習を見ることがありま

す。狭い所ですので、騎手を乗せて馬が歩いてぐるぐる回ったり、少し駆け足で回ったりして練習をしていま

す。見ていると、馬の方が馴らされているのか、初心者と思われる乗り手でも手綱で馬がコントロールされて

います。

・「あなたは久しい昔に軛を折り、手綱を振り切って、『わたしは仕えることはしない』と言った」(20節a)

というのは、イスラエルの民の背信を言い表しているのであります。イスラエルの民にとって、神ヤハウエは

特別な存在でした。イスラエルの民にとってその出発点は、出エジプトの出来事でした。エジプトで奴隷であ

った彼ら・彼女らは、その奴隷という差別的で労働も過酷を極めていた状態から、モーセを指導者に与えられ

て脱出することが出来ました。その脱出劇は出エジプト記の物語を読みますと、神話的に彩られていますが、

ある種奇跡的な出来事だったに違いありません。エジプトで奴隷であったイスラエルの民だけでは、どう逆立

ちしても出エジプトは実現できるとは思えませんでした。ですから、神ヤハウエの導き、神ヤハウエの主導性

が強調されて出エジプトの出来事は描かれているのであります。

・ご存知のようにエジプトを脱出したイスラエルの民は、モーセを仲立ちにして、神ヤハウエとの間に契約

を締結します。イスラエルという名前は「神は支配したもう」「神が統べたまわんことを」という意味です

(神聖書大辞典)。その神ヤハウエと契約締結するということは、イスラエルの民は神ヤハウエへの信従を

もって、自らのアイデンティティーとすることを意味しました。そしてその契約は具体的には神ヤハウエが

かく生きよと命じる法を守って生きることでありました。神ヤハウエの側からすれば、神ヤハウエはイスラ

エルの民に与える法(律法)をもって導こうとされたのです。それが律法であり、具体的には十戒です。

イスラエルの民は、出エジプト脱出後の荒野の時代には、この契約の民としての道をそれほど大きく逸脱

することはありませんでした。生活が厳しくお互いに支え合い、助け合わなければ生き抜くことができなか

ったからです。彼ら・彼女らの置かれた荒野という厳しい状況が、神ヤハウエへの信従による一体感をイス

ラエルの民にもたらしたとも言えるかもしれません。

・もちろん、荒野の生活においてもイスラエルの民に神ヤハウエへの不服従がなかったわけではありません。

余のひもじさの故に、エジプトの肉鍋を思い出して、エジプトを脱出したことを後悔して、神ヤハウエに背い

たこともありました。しかし、モーセの指導にもより、そのようなイスラエルの民の小さな背信が契約の民と

しての彼ら・彼女らのアイデンティティーを覆してしまうことはありませんでした。

・ところが、カナン侵入後は、荒野の時代にはなかった富と権力にイスラエルの民は出会うことになります。

富と権力の象徴である豊穣の神バール神がカナンの地域では人々によって信じられていました。このバール

神への信仰の魅力、誘惑は大変大きなものでした。荒野での貧しい生活を強いられてきたイスラエルの民に

とりまして、カナンの農耕文化はキラキラ輝いて見えたに違いありません。カナン定着後徐々にシナイ契約

と荒野の生活はイスラエルの民にとって、それ以外にはあり得ない絶対的、排他的なものから、決して忘れ

ることはなかったでしょうが、目の前のカナン文化の物質的な豊さに心が奪われていきます。道が一つでな

く、幾つにも分岐していると、どこに向かって行ったらいいのか迷ってしまうことがあります。荒野では神

ヤハウエを主とする信仰による契約と律法という一つの道を進んでいたイスラエルの民ですが、カナン定着

後には、カナン先住民の中にはある豊穣神バール崇拝と向かい合わなければなりませんでした。

・関根正雄さんは、「旧約本来の宗教とバール宗教の相違は聖なる律法に従う啓示宗教と熱狂的な宗教的興

奮を主とする自然宗教との相違であるといえるであろう」と言い、続けてこのように言っています。「神の

啓示に厳密に立たない宗教は必然的に人間の自然の宗教心の満足を追求するに至り、生命の充実を興奮と熱

狂に求めるに至る。聖なる律法のみが一切の主観的な興奮から人を解放し、客観的な神の意思に従って神に

奉仕せしめる。律法の下に立たない人の心は放縦に傾き、宗教の世界でもそれは様々な形を取って現れる」

と(旧『エレミヤ書註解』29頁)。

・20節後半に「あなたは高い丘の上/緑の木の下と見ればどこでも/身を横たえ遊女となる」とありますが、

「高い丘」と「緑の木の下」はバール宗教の祭儀が行われた場所です。「高い丘」は天に近く、それだけ人の

宗教心を満足させるところでありました。「緑の木」は自然の生命のシンボルであり、生命の追及を主とする

バール的礼拝はこのような木の下で人を性的放埓へと駆り立てたのです。私たち人間は、他者を自分の欲望の

対象とすることを罪と自覚し、支配と抑圧ではなく、支え合い、助け合いの中で対等な隣人として共に生きて

行くには、「人を殺してはならない」「隣人の物をむさぼってはならない」という律法によって、それを逸脱

する人間の罪を知らされていなければなりません。自分の生命の充実だけを求めるならば、他者である隣人も

その道具、手段にされていくのです。エレミヤは、バール宗教の性的熱狂の中に、そのような人間の逸脱を見

ているのではないかと思います。
・ そこでエレミヤは、「わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる/確かな種として植えたのに/どう

して、わたしに背いて/悪い野ぶどうに変わり果てたのか」(21節)と語っているのです。「野ぶどう」は野性

のぶどうであり、この比喩は、かく生きよという神の定めである律法を捨てて、自分の欲求のままに生きる人

間の自然性を意味しているものと思われます。イスラエルの民はそのような野ぶどうになってしまい、「たと

え灰汁で体を洗い/多くの石灰を使っても/わたしの目には/罪があなたに染みついていると/主なる神は言

われる」(22節)と、エレミヤは語っているのです。23節以下では「雌のらくだ」「雌ろば」を比喩にして、

罪が染みついているイスラエルの民のバール崇拝の熱狂振りを描いています。そこでは「お前は、素早い雌の

らくだのように/道をさまよい歩く」(23節)と言われ、「お前は答えて言う/『いいえ、止めても無駄です。

/わたしは異国の男を慕い/その後を追います』」(25節)と言われています。

・このような人間の自然の欲求、欲望、情欲に従って私たちが生きるとすれば、最近問題になって私たちを驚

かせた、フィリピンに行って12,000人の女性を買春し続けた校長のような倒錯が起こってもおかしくないのか

も知れません。その行為が問題であることを知りながら、それを追い求めて行く人には、「好きなものは好き

なんだ」という人間の自然性を最もよく表す原理が支配していると思われます。

・先日ラジオを聞いていましたら、会社を辞めて6年間世界中を旅している人のインタビューが放送されていま

した。ほぼその旅は終わろうとしているようでしたが、アナウンサーの質問に答えて、その人はこの旅で自分

の価値観が変わったと言っていました。日本では「勉強して、いい大学を出て、いい会社に就職すれば、経済

的にも恵まれた生活ができる」という風に小さい時から言われて、自分もそのようにやってきて、それなりの

会社に就職できて生きてきたが、この旅で世界の様々な人たちの生き方を見て、そのような価値観が変わった、

と言っていました。日本に帰ったら、日本に来る外国人のための仕事をしたいと思っている、と言っていました。

・「勉強して、いい大学を出て、いい会社に就職すれば、経済的にも恵まれた生活ができる」という教えには、

人間の欲求をより多く満たせても、人が他者と共に平和に生きて行くためにはどうすればよいかという指針は

ありません。その指針は、すべての人は神の前に対等平等であるという、ただ一人の方によって私たちすべて

は造られ、命与えられて、許されて生きているという信仰と、そうであるが故に、他者と共に私たちに命を与

えて下さった方の定めである律法に忠実に生きて、その方に喜んでもらいたいという生き方が私たちの中に生

れてくるのではないでしょうか。そのような生き方は、「軛を折り」「手綱を振り切」って、自分だけで、自

分の内から出てくる欲求だけで生きる者には不可能です。

・有名なイエスの言葉ですが、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあ

げよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがた

は安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28-30)と言われ

ました。「人は大なり小なり、・・・(かく生きよ、そうすれば安らぎを得ることが出来るという神の定めで

ある)律法の要求を無視します。律法に従い得る者となる為には、私たちは十字架にあって古き己れに死に、

新たにキリストに生きて、キリストの律法に喜んで生きる者とせられねばなりません」(関根)。

・「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わ

たしたちは、霊の導きに従って生きているのなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互い

に挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう」(ガラ5:24-26)と言われている通りです。エレミヤ

の預言からこのことにも思いを馳せたいと願います。