なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(30)

     「神に訴える」エレミヤ12:1-6、2016年2月28日(日)船越教会礼拝説教

・先週「沖縄から米軍基地撤去を求め、教団『合同のとらえなおし』をすすめる連絡会」(以下「求めす

すめる連絡会」)の全国集会が沖縄であり、沖縄に行ってきました。今日の船越通信にも書いておきまし

たように、その間2日辺野古新基地反対のシュワブ・ゲート前の座り込みにも参加してきました。キャン

プ・シュワブの米軍基地だけでなく、沖縄の至る所に張り巡らされている基地のフェンスを見ながら自動

車で移動して感じることは、沖縄島の自然が住みついた米軍によって荒らされているということです。先

ほど司会者に読んでいただいエレミヤ書12章4節のところには、このように記されていました。<いつまで、

この地は乾き/野の青草もすべて枯れてしまったのか。/そこに住む者らの悪が/鳥や獣を絶やしてしま

った。/まことに、彼らは言う。/「神は我々の行く末を見てはおられない」>と。ここには悪しき人々

によって自然が破壊されていることが描かれていて、しかもその悪しき人々が「神は我々の行く末を見て

はおられない」とうそぶいていると言われているのです。このエレミヤの言葉と米軍が支配する沖縄の現

実とが重なっているように感じられました。

預言者エレミヤは神の真実に信頼していました。先ほど司会者に読んでいただいた12章1節の冒頭に「正

しいのは、主よ、あなたです」と告白していることからも、エレミヤが神の真実に信頼していることが分

かると思います。しかし、神が真実な方であるとするならば、この世の中で悪人が栄えているのは何故な

のか。エレミヤはそのような問いを持っていました。神が真実な方であり、その神の真実がすべての人間

に於いて貫かれているとするならば、この世は平和の裡にすべての人々がその人らしくありのままに、そ

の与えられた命を喜んで生きていくことができるでしょう。ところが、現実はそうではありません。沖縄

の人々の苦しみがあります。福島の人々の苦しみがあります。

・今回「求めすすめる連絡会」のオプションとして集会終了後、那覇にある「不屈館」に行くことができ

ました。ウキペディアによりますと、「不屈館(ふくつかん)は、政治家瀬長亀次郎がのこした資料をも

とにして、2013年3月、沖縄県那覇市に開設された[1]沖縄の戦後史に関する民間の資料館。米軍占領下の

沖縄で沖縄人民党を組織、圧制に対する抵抗運動の先頭に立ち、立法院議員・那覇市長・日本共産党衆議

院議員などを歴任した政治家瀬長亀次郎がのこした膨大な資料を中心に、沖縄の民衆のたたかいを後世に

伝える目的でつくられた。今後県民からの資料提供も受け、特に米軍統治下の民衆の歩みなど沖縄の戦後

学べる、民衆の支えによる民衆のための資料館を目指す、としている」[2] 沖縄では、現在の辺野古

基地反対の闘いにつながる、瀬長亀次郎や阿波根昌鴻のような人に指導された民衆の闘いが、敗戦後の約

70年間綿々と続いていることを知らされました。

・また、シュワブゲート前の座り込みをしていた時に、隣にパレスチナの問題に詳しいM先生がいましたの

で、私は先生にこの辺野古での闘いはパレスチナ人の闘いと共通するものがあるのではないですか、とお

尋ねしたところ、M先生はそうだとおっしゃっていました。

・沖縄やパレスチナの現実は、神の真実が現実の世界の中では貫かれておらす、むしろ隠されてしまって

いることを示しているのではないでしょうか。ですから、エレミヤと共にこの問いは私たち自身の中にも

ある問いではないでしょうか。<なぜ、神に逆らう者の道は栄え、欺く者は皆、安穏に過ごしているので

すか>(1節)と。

・エレミヤはこの問いをもって神に訴えているのです。2節ではこのように言われています。<あなたが彼

らを植えられたので/彼らは根を張り/育って実を結んでいます。/口先ではあなたに近く/腹ではあなた

から遠いのです>と。大地に植えられた木が根を張り、成長して実を結ぶように、悪人はこの世の中で栄え

ているのです。それは、あなたがそうしているからではないですかと、エレミヤは神に向かって抗議してい

るのです。

・エレミヤにとって、神は<人のはらわたと心を究め>る方でした。3節で<主よ、あなたはわたしをご存

じです。/わたしを見て、あなたに対するわたしの心を/究められたはずです>と語っている通しです。11

章20節でもこのように語られていました。<万軍の主よ/人のはらわたと心を究め/正義をもって裁かれる

主よ/わたしに見せてください/あなたが彼らに復讐されるのを。/わたしの訴えをあなたに打ち明け/

お任せします。>と。

・エレミヤは、神に向かって、<彼らを屠られる羊として引き出し/殺戮の日のために取り分けてくださ

い>と言って、彼ら悪人を神が裁いてくれるように訴えているのです。ところが、現実はなお悪人が栄え

ているのです。

・エレミヤは、ヨシヤ王の宗教改革に賛同して、その改革を広めていくために、故郷アナトトの人々とも、

エルサレムの人々ともそのための話し合いをしていったと思われます。ところが、話し合っていけばいく

ほど、人々は殆ど現実的な利害の問題で動いていて、その話し合いにエレミヤ自身が疲れてしまうという

ことがあったようです。それでは当然改革の精神は実現しません。

・5節、6節にこのように記されています。<あなたが徒歩で行く者と競っても疲れるなら/どうして馬で

行く者と争えようか。/平穏な地でだけ、安んじているのなら、/ヨルダンの森林ではどうするか。/あ

なたの兄弟や父の家の人々/彼らでさえあなたを欺き/彼らでさえあなたの背後で徒党を組んでいる。/

彼らを信じるな。/彼らが好意を示して話しかけても>。

・「事情がよくわかって、平和の支配する場所なら、安心して預言活動ができるとしても、ヨルダン川

渓谷のように、樹木の茂る見通しの利かないところでは、一体何ができるのだろうかというのであります。

兄弟や、一族の者すら自分を欺き、徒党を組んでいるのだから、預言者としての使命を果たすためには、

苦難に耐える決意だけでなく、人の心の奥底を究める洞察力が必要であろうということになります。エレ

ミヤは、エルサレムとユダの人々との対決を繰り返す中で、すでに裏切る者について(9:1-2)、兄弟や隣

人のする中傷や欺きについて(9:3-5)、あるいは、陰謀と悪だくみについて(11:9,15)、経験を重ねてき

ました。エレミヤは同郷の人々の、激しい憎悪と暗殺の陰謀を知らされ、衝撃を隠さず述べています。若

いエレミヤにとって、預言活動の苦難の道を十分に示す事件であったでしょう。こうして、エレミヤの性

格は、次第に強固に鍛え上げられていくことになるのであります」。

・つまり、エレミヤは、何故悪人が栄えているのか。神の真実はどこにあるのかと、神の真実よりも人間

の驕りが優っている、悪人が栄えているこの世の現実を直視して、それは何故なのかと神に訴えることを

通して、神の真実が明らかになるようにと、彼が託された預言者の務めに徹していくようになるのです。

悪しき者への神の審判を求めますが、神が悪し者を裁く時がくるのを、ただ手をこまねいて待っているの

ではありません。悪しき者への審判が必ずや行われて、神の真実の支配する時が必ずやってくるのだとい

う確信の下に、エレミヤ自身が神の真実を明らかにすべく、預言者の活動に専心していくのです。

・その際、エレミヤは、「はらわたと心を究める方」である神の前に自らも真実な人間として立つことを

心掛けたのではないでしょうか。礼拝厳守とキリスト者としての生活を儀礼的に守っていたとしても、そ

の人の「はらわたと心」はどうなのか。信仰の問題は「外面的な儀礼の問題ではなく、心の奥底の問題で

あるというのです。心の奥底の問題を取り上げるならば、口先で敬虔のよそおいをしながら、自分の利益

に反する者を抹殺するようなことが許される」はすがありません。。エレミヤは、<なぜ、神に逆らう者

の道は栄え、欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか>(1節)と神に問いつつ、片や祭儀は儀礼的に守

りながら、「はらわたと心」では神に背いて生きている人々を前にして、神の真実に真実をもって応えて

いこうと苦闘しているのです。そのエレミヤの苦闘は、今日この時代と社会に生きる私たちにとっての苦

闘ではないでしょうか。その神の真実を求めて生きる者の苦闘に、私たちも少しでも連なることができる

よう、祈り求めていきたいと願います。