「権力者を裁く神」エレミヤ21:11-14、2016年12月4日船越教会礼拝説教
・先週の説教で、私は、私たち人間は社会的な存在であるということを申し上げました。生まれてから死ぬ
まで私たちは社会の中でもみくちゃにされながらその一生を過ごすのではないかと。
・私は、実は今日が誕生日で満75歳になりました。後期高齢者の仲間入りです。自分としては、若いときには
こんなに長く生きられるとは思っていませんでした。母が53歳で亡くなっていますので、私の体型は母に似て
ひ弱な感じでしたので、自分もそう長生きはできないと思っていたのです。ですから、30歳を過ぎたころ、イ
エスは30歳前後で殺されて死んだのに、私はイエスよりも長生きしているんだと思いました。39歳が過ぎた時
に、ボンフェッファーやマルチン・ルーサー・キングは39歳で殺されて死んだのに、自分はその時も過ぎてし
まった。でも、バルトは82歳まで生きたのだから・・・なんで思ったこともあります。段々バルトの亡くなっ
た年に近づいてきています。
・この私の75年の人生でも、その時々の社会状況による影響を私自身も受けて現在に至っています。私は1960
年に高校を卒業して、3年ほど父の仕事を手伝ってから東京神学大学に入学しました。それが1963年4月です。
1960年には安保闘争があり、学生や文化人が国会に突入し、東大生の樺美智子さんが亡くなりました。その後
の10年間、特に60年代後半から70年代はじめにかけては、学生運動の高揚期でもありましたし、ベトナム戦争、
70年の安保改定・大阪万博、そして連合赤軍のあさま山荘事件と激しく社会が動いていました。経済的にはベ
トナム特需で日本社会は潤い、高度経済成長の時代に入って、総中流化と言われるようになってきましたが、
一部取り残された人びとがいました。
・私が神学校時代と最初に牧師になってからの計10年間関わりました、廃品回収を生業としている方々も取り
残された人びとでした。その中でも、当時生活保護を受けられた人は恵まれていましたが、生活保護を受けら
れないで、廃品回収だけで生きている人は、廃品回収を買い取る仕切りやの劣悪な長屋で、その日集めて来た
廃品を売って暮らしていました。その方々は文字通り貧困そのものの生活を強いられていました。若い時から
日雇い労働者として搾取されてきた方々です。年取って日雇い労働ができなくなって、廃品回収でかろうじて
生きている人々です。そのような方々が、今も野宿を余儀なくされる形でおられますし、格差社会が進行し、
貧困に苦しむ人が子供たちの中にも広がっている現状があります。
・私たちは船越教会礼拝式文で聖餐式の時に、5,000人の供食の記事の聖句を読んだ後、<「主イエスは弟子
達に「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(マルコ6:37)と言われました。パンとぶどう酒はまず飢え
渇いている人々にこそ与えるべきものです。そのために私達は貧困と飢えを無くすべく、政治的、社会的改革
に目を向けるように主イエスから問われ、依頼されました。人間の生命を維持するために日々必要な食物があ
る人々には欠けている不平等な社会はイエスの神の国にはふさわしくありません>と、繰り返し確認していま
す。
・私たちは「能力に応じて働き、必要に応じて与えられる」社会にあって、はじめて格差のない平等な関係を
共に生きることができるのではないでしょうか。ところがご存知のように、現代の世界は、世界の貧困問題に
取り組むあるある国際組織の報告書によれば、<2015年、世界の上位1%の富裕層が、残り99%全員分を合わ
せたよりも多くの富を所有していた。言い換えれば、世界の富の半分以上をわずか1%の人たちが保有してい
た>というのです。この現実は、現代社会の金融システムを利用して、政治を支配している一部の富裕層によ
って作り出されていると思われます。この現代の超資本主義社会が続くとすれば、更なる格差社会を生み出し、
環境破壊を増進し、人類と地球の破滅に向かっていくに違いありません。持続可能な社会の在り方が切実に求
められているのであります。
・そのような世界の現実に生きています私たちに向かって、ユダの王家に対して語られたエレミヤの預言は、
貧困の問題について神がどのように対処されるかを告げているのであります。ここで「ユダの王家」とは、宮
廷を意味します。エレミヤの時代、ユダの国では、宮廷が政治的実権を握っていました。つまり宮廷が実質的
にユダの国を政治的に動かしていたのです。エレミヤは語ります。<ダビデの家よ、主はこう言われる。/朝
ごとに正しい裁きを行え。/搾取されている人を/虐げる者の手から救い出せ。/わたしが火のような怒りを
/発することのないように。/お前たちの悪事のゆえにその火は燃え/消す者はいないであろう>(21:12)と。
・エレミヤは政治的実権を握っている人々に、<正しい裁き>を行い、<搾取されている人を、虐げる者の手
から救い出せ>と神が語っていると告げているのです。それが、政治的実権を握っている者に対する神の意志
だと言うのです。古代のユダの国において、「搾取されている人を、虐げる者の手から救い出せる」のは、王
宮を支配する人々でした。その中心人物はユダの王でした。前近代的な封建的社会では、絶対的な権力を持っ
ている王の存在は、その社会の正義の実現においても決定的な力をもっていたのです。ですから、エレミヤは
ユダの王家に対してこの預言を語ったのです。神の意志である神の権威に背いたら、どうなるか。エレミヤは
このように語っています。14節です。<わたしはお前たちの悪事の結果に従って報いると/主は言われる。/
わたしは火を周囲の森に放ち/火はすべてを焼き尽くす」と。王は公平な裁きを行い、弱者への配慮をきちっ
とするために立てられているからです。王と言えども、公平な裁きを行い、弱者への配慮を大切にする神によ
って、神の意志を実現するために立てられた存在に過ぎないからです。
・現在韓国の朴槿恵(ぱくくね)大統領の大統領という権力の私物化が批判されていますが、古代イスラエル
にあっては、このような権力者による権力の私物化は絶対に許されませんでした。王を批判する預言者の存在
は、そのことを明確に示しています。
・けれども、現実には王も民衆も神の言葉に従うよりも、自らの欲望と傲慢の虜になって神の言葉に逆らう道
を選んでいくのです。アダムの罪を模倣して生きるのが私たちの現実であって、幼子のように神に従って生き
る神の子どもにはなれないからです。そのことは現在でも全く変わりません。
・そうであるからこそ、神は御子イエスを私たちのところにお遣わしになられたのではないでしょうか。イエ
スは宗教としてのキリスト教の創設者なのではありません。イエスは、信じる者にとっても、信じない者にと
っても、私たちすべてを神の国に招く救い主なのであります。
・このアドベントの時期に、毎年船越教会員一同の名でお世話になった先生やしばらく教会に来れない方にク
リスマス・カードを出しています。そのカードに、今年はジェラール・ベシエールという人の言葉を添えまし
た。それはこういうことばです。
・<「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」(ルカ12:49)。それは聖霊の炎である。神は長い
沈黙を破り、自ら解決に乗り出した。イエスはその教えを通して、神の国が現存し、間近に迫っていることを
繰り返し示す。喜ばしい知らせは、貧しい人、障がい者、囚人、虐げられた人に与えられる。変えられようと
しているのは、こういう人々の生なのだ。>
・ここに「イエスは、その教えを通して、神の国が現存し、間近に迫っていることを繰り返し示す>と言われ
ています。そのイエスがローマの権力者によって十字架に架けられて殺されました。しかし、その死から勝利
した復活の主として、イエスは今も生きていて私たちすべてを神の国の住民として招いています。イエスの十
字架は生まれながらの私たち人間の死でもあります。そしてイエスの復活は私たち一人一人の中に新しい人間
の誕生をも意味します。
・パウロはローマの信徒への手紙6章6節から11節で、このように語っています・少し長くなりますがその部分
を朗読させていただきます。<わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配さ
れた体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。わたしたちは、キリストと共に死
んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリスト
はもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、
ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのである。このよう
に、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリストに結ばれて、神に対して生きているのだと考えな
さい>。
・私たちは、このキリスト、主イエスを王とする王国である神の国の住人として、罪に対して死んで、神に対
して生きている神の子どもの一人として、今この破局的な時代の社会の中で生きているのではないでしょうか。
その信仰をしっかりともって、この世にあっては隠されてはいますが、神の国の現実を生きていく者でありた
いと願います。