なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(11)

 以下の説教原稿は、ほとんど本の引用です。当日の説教は「悲しみの意味」に焦点をあてて、この原稿

のままではなく、これを参考にして話しました。


    「悲しむ人々」マタイによる福音書5:4、2018年6月10日船越教会礼拝説教


・私は先週の金曜日朝9時15分に、横浜黄金町の映画館ジャック&ベティーで上映していた映画「獄友」の

最終日に、Nさんからいただいていた「獄友」の招待券で観てきました。実は5月9日に、Nさんから送って

頂いたチラシを見て、東中野のポレポレという映画館に行ったのですが、その時は映画の上映ではなく、

「獄友」の映画完成記念のライブでした。チラシを見間違えたのですが、折角なので券を買ってライブを

聴いてきました。小室等を中心としたライブでしたが、思わぬ形で楽しいひと時を体験することができま

した。そういうこともあって、「獄友」の上映がジャック&ベティーであることを知って、観に行ったと

いう次第です。


・冤罪による何十年もの獄中生活から解放されて、日常の生活に戻ることが出来た主に5人の方の現在の

生活が坦々と描かれている映画でした。それだけに、そのような日常の生活を何十年も奪う、あってはな

らない警察権力による冤罪の問題性が浮き彫りにされる映画でした。1967年、桜井昌司さんと杉山卓男さ

んは茨城県で起きた「布川(ふかわ)事件」で逮捕され、およそ29年間の獄中生活の後に2011年に無罪が

確定する。菅家利和さんは、1990年に栃木県で起きた「足利事件」で4歳の女児殺しの犯人に仕立て上げ

られ、約17年の監獄暮らしの末2010年に再審で無罪が確定した。石川一雄さんや袴田巖さんも同様に無実

の罪を着せられた。二人はまだ再審で無罪が認められていません。この映画の中で、石川さんは完全無罪

になるまで、両親のお墓には行かないと心に決めていると言っていました。


・今日はマタイ福音書の5章4節の言葉からメッセージを与えられたいと思います。まずはじめに映画「獄

友」のお話をしたのは、この映画に出て来る5人の冤罪によって長い間獄中生活を強いられた方々は、マ

タイ5章4節の「悲しむ人々」の中に属する人たちではないかと思ったからです。


・ところで、私たち人間にとって「悲しみ」とは何を意味するのでしょうか。H・ヴェーダーの『山上の

説教~その歴史的意味と今日的解釈~』のマタイ5章4節の解説を参考にして考えてみたいと思います。


ヴェーダーは、まずこのマタイ福音書5章4節の第二の至福(第一はマタイ福音書5章3節の「心の貧しい

人々は、幸いである。/天の国はその人たちのものである。」です。)も、マタイ福音書とルカ福音書

共通の資料であるイエスの語録集であるQ資料に由来していると考えています。そして≪おそらくルカに

保持されている形で史的イエスに遡る。元来のテキストは、内容的には同じでも異なる語が用いられ、別

の人称(二人称複数)で語られている。「あなたがた泣いている者たち(あるいは嘆いている者たち)は

幸いである。なぜならあなたがたは笑うようになるだろうから(ルカの「今」は元来のものではないだろ

う)」(ルカ6:21)。≫と言います。


・そしてこの祝福の言葉に関する教会の解釈では、≪長期にわたって、悲しみは自分自身の罪と悪意につ

いての悲しみ、この世の罪と悪意についての悲しみに限定されていた≫と言うのです。≪そうするとこの

祝福の言葉は、この世的な(この世に起源をもつ)悲嘆(saecularis tristitia)のようなものではな

く、むしろ自分自身や他人の悪意についての悲嘆に関して述べられていることにな≫ります。この長期に

わたってなされてきた教会の解釈は、≪マタイのテキストの意味からは少なからず移行しており、まして

や元来のイエスの言葉からはなおさらであ≫ります。その意味で、悲しみを「罪や悪意」に限定すること

は、≪不適切なレッテル≫ということになります。つまり、マタイ5章4節の「悲しみ」は、私たち自身

の、またこの世の「罪や悪意」だけを意味するものではありません。


・≪悲しむ者に対するイエスの元来の祝福の言葉にそのような限定はありませんでした。それは、彼らが

誰かの死について悲しんだり、あるいは彼らの時代への嫌悪について、あるいは彼ら自身の悪意について

悲しんだりする、あらゆる悲しんでいる者に向けられている≫のです。「悲しんでいる者たちは幸いであ

る。彼らは慰められるであろうから」と。


・≪このことはまさにイザヤ書61章2節を明らかに暗示するマタイの言葉遣いにも示されています。

「…主の恵みの年と私たちの神の報復の日を告知する。その時悲しんでいる者はすべて慰められる」(イ

ザヤ書61:2)。イザヤ書のこの箇所で明らかなのは、・・・あらゆる悲しみを(少なくともイスラエル

民から)永遠にこの世から取り消すであろう最終的な慰めである。・・・マタイにおいては9章15節で、

「花婿が共にいる時に婚礼の客は悲しむことができるであろうか」(と言われており、)・・・イエス

現存することによって悲しみは無用のものとなる。なぜなら、すでに今、最終的な慰めが起こっているか

らである。そうであるなら、現在の慰めの具体的な遂行とは何であり得るのか。その答えは、悲しんでい

る者への至福の語りかけは最終的な慰めの現在化である、というものでなければならない≫。


・≪この祝福の言葉を、・・・内部から理解してみよう。明らかにそれは、人間の悲しみと神支配との直

接的な関係を前提としている。これについて何等かの手掛かりを得るために、悲しみの現象を丁寧に考察

しなければならない≫と言って、≪悲しみ≫についてこのような考察がなされているのです。≪既に古代

文献において、この「悲しむ」という動詞は実にしばしば死との関連で用いられた。死は人々を悲しみに

導いていく。死に際して何が生じるのか。私の生に属し、その存在が私自身の躍動性に寄与していたその

人はもはや存在しない。それゆえ二重の観点において取り去られた生についての悲しみ、すなわち死んだ

者が被った生の取り消しについての悲しみと、死によって私自身から失われた躍動性についての悲しみが

生じる。悲しみは、それが現れるときには、泣くことと嘆くことにおいて現れる。泣くことと嘆くことに

おいて、無傷のものや満たされた生や全体性にたいする情熱が生じるのである≫。


・≪・・・イエスが悲しむ者を幸いだと賞賛するのは、彼らがまさにその躍動性の情熱において生そのも

のに好意を寄せていたからである。目的とされるのは情熱のない生き方から生じる痛みの無さではなく、

神支配における生の豊かさである。躍動性の情熱を表す悲しみにおいて、人間はこの目的に方向を定め

る。それゆえそれ(悲しみ)は克服すべき欠陥ではなく、至福のしるしなのである≫。


・≪悲しむことができないということは、・・・生の喪失を処理するだけでなく、自らをあらゆる生の喪

失に対して無感覚にしようとする。悲しむことができないということは無思慮な高笑いの形においても存

在するが、その高笑いは取り消された生をまったく評価せず、あらゆる会話を妨げるやかましすぎる音楽

のように、あらゆる悲しみを遮(さえぎ)るのである。この高笑いのために私はまったく嘆くことができ

ない。喪失によって生じたこの隙間を私は即座に代替品で埋めようとし、その生の取り消しには全く気付

かないだろう。それゆえ嘆きは生じない≫。


・≪しかし、この生の喪失に対する嘆きにおいて、私は生の付与者である神に直接結びつくだろう。慰め

るとは嘆く者に生を与えることである。慰めるとは嘆く者の方を向き、彼に自分の生を共有させ、慰める

者と嘆く者との生を担っているものに目を向けさせることである。それゆえ、嘆きは内的に慰めと関連し

ている。嘆きは慰めるものを何も持たないが、それでもそれは慰めとの結合点である。というのも、神の

支配の最終的な慰めが明らかにしているように、慰めは嘆き以外の何ものも前提としないからである。つ

まり、嘆くことができない者を慰めることはできない。嘆く者に対する祝福の言葉は、嘆く機会を与える

ようなものではないだろうか。もし嘆きが、すべてのものを支える神が悲しみに好意を寄せていると述べ

るなら、この祝福の言葉は慰めであり、・・・それでも当面の時代の条件のもとでは最終的な慰めなので

ある≫。


・≪悲しみの中に無傷の生への情熱が隠されていると言えるなら、このことは確かに、この世的な悲しみ

についても言えるだろう。しかしそれだけではない。自分自身の罪や他人の罪に対する悲しみもここに含

まれている。罪は、自分自身のものであろうと他人のものであろうと、常に誤った生であり、破棄された

躍動性である。それゆえ悲しむことは、悲惨な罪人によって演じられた悔恨と混同すべきではない。それ

はむしろ失敗し、軽蔑された生についての悲しみであり、嘆きである。イエスの祝福の言葉は、この悲し

みにも向けられている。生に対する自分自身や他人の過失についての嘆きは、生を形づくる赦しが入場で

きる門を開かれたままにするのである≫。


・≪悲しみの中に無傷の生への情熱が隠されている≫


・≪神支配における生の豊かさである。躍動性の情熱を表す悲しみにおいて、人間はこの目的に方向を定

める。それゆえそれ(悲しみ)は克服すべき欠陥ではなく、至福のしるしなのである≫。


・そもそも私たちは悲しみの無い人生を生きることはできない。この世を生きるということは、悲しみを

抱えて生きることである。傷だらけの生の中で、それを仕方ないものとして諦め、無感覚になって生きる

のではない。無傷の生への情熱を持つがゆえに、私たちは悲しむのである。


・もし私たちの中に悲しむことがなくなって、みんながアパシー「無関心、無感動、無気力、冷淡さ」に

なったら、本当に恐ろしい社会になってしまうのではないでしょうか。


・「悲しんでいる人たちは幸いである。その人たちは慰められる」。