この2週間、猛暑の中、私にとっては結構忙しい時を過ごしました。ですから、ブログに記事を掲載す
る気持ちの余裕がなく、しばらくこのブログは休止状態になりました。忙しさが一段落しましたしたの
で、記事の掲載を続けます。
「柔和な人々」マタイによる福音書5:5 2018年7月8日(日)船越教会礼拝説教
・今日はマタイによる福音書5章5節の≪柔和な人々は、幸いである。/その人たちは地を受け継ぐ≫の言
葉から、私達に対する語りかけを聞きたいと思います。
・船越にある古い広辞苑(第二版)で「柔和」の意味を見てみました。「性質がやさしくおとなしいこと」
とありました。もう一つ新明解国語辞典(5版)には、「〔人柄や態度が〕優しく穏やかな様子」とありま
した。どちらも同じような意味です。
・柔和がそのような意味であるとすれば、「柔和な人」とは、物腰の柔らかな、穏やかな人柄の人という
ことになります。実は私も、人からそのような人柄として見られることがよくあります。しかし、親しい
友人は、私が外見ほど柔和な人間ではなく、短気で怒りっぽいところがあることを見抜いています。
・マタイによる福音書の5章5節の「柔和な人々」とは、国語辞典にあるような意味なのでしょうか。ギリ
シャ語の「柔和な(プラーユス)」も確かに「柔和(温順、親切)な、やさしい」という意味を持ってい
ます。ギリシャ世界においては、かっとなって怒らない、我慢強い忍耐を意味していると言われています
(H・ヴェーダー)から、国語辞典の「柔和な」の意味に近いと考えられます。そのような柔和は、人間
に備わっている徳目の一つとして理解されているのだと思われます。
・そのような柔和さ、人間のやさしさが、場合によっては不正に満ちた社会の現実において、その社会の
現状維持に力を貸してしまうということがあります。先週本田哲郎さんの「主の祈り」の一節をこの説教
で引用しましたが、その同じ本田哲郎さんの「主の祈り」の別の一節、「私たちを誘惑にあわせず、悪い
者から救ってください」のところの応答としてこのように言われています。「私たちにとっていちばんの
誘惑は、己の弱さ、ふがいなさに絶望すること。やりなおす努力を放棄したくなること。「力は弱さの中
でこそ十分に発揮される」「わたしは弱いときにこそ強い」(汽灰螢鵐12:9~10)というあなたの教え
を信じて、立たせてください。また、「なにごとも争わず、対立せず、波風をたてずに納めなさい」とい
う思いも、大きな誘惑です。私たちのやさしさが、不正に満ちた体制を支えることになりませんように。
いまの社会の仕組みにともなう抑圧と差別から、私たちを解放して下さい」と。本田哲郎さんも、ここで
「私たちのやさしさが、不正に満ちた体制を支えることになりませんように」といって、やさしさである
柔和な人間が結果的に不正に満ちた現状維持に加担する危険性があることを踏まえているように思われま
す。
・マタイ福音書5章5節の「柔和な人々」(新共同訳)は、田川訳では「へりくだった者」、本田訳では
「抑圧にめげない人」と訳されています。二人の訳は、人間的なやさしさとしての柔和の意味とは大分
違っています。
・国語辞典ではなく、聖書辞典で「柔和」の意味を調べてみますと、マタイ福音書5章5節のギリシャ語の
「柔和な(プラーユス)」に対応するヘブル語(アーナウ)は、元来、「卑しい、抑圧された奴隷状態に
あることを意味すると言われます。そこから意味をさらに転じて、自己を神の貧しきしもべとみなし、神
の意志に完全に従順であり、それゆえにまた隣人に対して怒りやごうまんな思いを抱かない状態をさすた
めに用いられている。したがって、それは謙遜とほとんど同じ意味であり、神と隣人に対する関係を同時
に成立せしめる実存の在り方を示す概念である」と言われています。
・エドアルド・シュヴァイツァーは、<イエスの語る言葉においては、謙遜という語は、「貧しい」とい
う語とほとんど区別できません。つまりこの言葉は、「とるに足らない、卑しい」という響きを持ってお
り、おそらく「権力のない」と訳すのが最もよいであろう。軟弱さとは何の関係もありません。この権力
なき者たちが、やがて地を所有するはずだというのです>と言っています。
・マタイによる福音書で「柔和な」という言葉が出て来るのは、今日の5章5節の他に2箇所だけです。し
かもその2箇所ともイエスとの関わりで出て来ます。
・一つ目は、マタイ福音書11章28-29節です。この箇所には28節に「疲れた者、重荷を負う者は、
だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という有名なイエスの言葉があります。その28節
の言葉に続けて、イエスは「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と語っているのです。
・この箇所をもう一度、ヴェーダーという人の訳で読んで見たいと思います。「あなたがた苦労している
者、重荷を負う者はすべて私のところに来なさい。あなたがたを元気づけてあげよう。私の軛を負い、私
に学びなさい。なぜなら私は柔和で心の謙遜な者だから。そして私のもとであなたがたは生きるための元
気を取り戻すのである」。
・ここではイエス自身が、「私は柔和で心の謙遜な者」であると言っているのであります。そして苦労す
る者が元気を取り戻し、「私の軛」すなわちイエスの軛を負うことが彼らにとって良いというその根拠と
して柔和さが挙げられているのです。先ほどこの柔和さは謙遜さとほとんど同じ意味であり、「権力のな
さ」と訳すのが最もよいであろうと言いました。「権力のなさ」とは「無力さ」と言い換えることができ
ます。イエスの軛は、12章30節で「わたしの軛は負いやすく、わたしの軛は軽いからである」と言われて
いますように、なぜ軽いのでしょうか。それは苦労している者を苦しめ、重荷を負っている者に重い負担
を与える暴力の軛ではないからです。非暴力の軛であり、無力の軛であり、悲惨な者を慰め、元気を回復
させる軛だからです。
・二つ目は、マタイ福音書25章2節です。メシアであるイエスのエルサレム入城の記事です。ここでは、
非暴力的なメシアである王の入場が叙述されていますゼカリヤ書9章9節からの引用部分に「柔和な」が用
いられています。通りに人垣をつくっている人々の「ホサナ」という叫び声と政治的期待とは明らかに対
照的に、ここでメシアはまったく無力さにおいて紹介され、子ロバに乗っています。この「柔和さ」とい
う語はへり下りの徳よりも無力さの状況を意味しており、それがキリストにおいて具現化されたというこ
とがここでもう一度明らかにされているように思われます。
・この柔和な者、権力なき者、無力な者について、マタイ福音書5章5節では、彼ら・彼女らは地を遺産と
して相続するであろうと言われているのです。柔和な人々が遺産として相続する地(国)とは、旧約聖書
では、さしあたってカナンの地(創世記17:8)に関連づけられています。つまり乳と蜜の流れる地と結び
ついていました。後代になって土地の約束は終末論的に変形されて、土地はイスラエルが全世界の諸民族
から仕えられるようになる新しい時代を意味するようになりました。いつの日か神の国の場所となるであ
ろう全地(ヤコブ2:5-6でも同様)に関連づけられています。詩編115:16も同じように理解して、天は神
の住まいであり、地は人々に与えられている、と語っています。イスラエルの将来に対する待望は、二つ
の流れがそこから始まって並行して流れつつ、相殺し合うことなく展開していったのです。
・すなわち、一方では、地上の王国が待望されます。そこでは、神ご自身が支配したまい、あらゆる民族
はイスラエルに仕えるか、それともイスラエルの中に受け入れられるのです。その際、次のことが強調さ
れる場合もあります。すなわち、問題は単に政治的な夢の実現にとどまらないのであって、むしろ神に
よって作り変えられた、つまりある意味では「あの世的」でもある世界が問題なのである、と(イザヤ6
5:17、66:22、競撻謄3:13)。
・他方の待望では、すでにエノクとエリヤがそれにあずかったように、天へと引き上げられるということ
が、考えられています。
・これら二つの見方は決してそれほどかけ離れたものではありません。並置されたりもするのです。両者
は聖書の思想にとっての、ある重要なことがらを表現しています。すなわち一方では、神の未来は神の創
造を否定したりはしないということであります。つまり、神が創造したまい、歴史の中で生起させてきた
もうたことは、神によって、それもまた意味あることとして、その目標へと導かれるのであります。他方
では、この神の未来は、人間の努力や歴史的経験の結果ではなくて、完全に神の行為だということです。
・このことは、次のことを含んでいます。すなわち、旧約聖書も新約聖書も、ともに最後決定的な事柄を
神と神の力とに期待しているというそのことのゆえに、この地上においてこの希望から具体的な形をとっ
て生起してくるものに対して、徹底的に関心を持っているということであります。マタイ福音書が、「天
においても地上においても」イエスに対して与えられた権能(28:18)への言及でもって終わっているの
は、そのためであります。そしてまさにマタイの教会は、神の御心が「天におけるように地上でも」おこ
なわれるようにと、祈るのです(6:10)。
・「柔和な人々は幸いである」。「柔和な者」=「権力なき者」=「無力な者」は幸いである。イエスを
マタイ福音書において2度まで「柔和な者」として描いているのは、歴史的には熱心党的な誘惑と関係し
ていると言われています。「暴力の行使に対しては、どんな土地も約束されてはいない。彼らの目的がい
かに高貴であろうとも、彼らの熱心がどれほど神の国に向けられたものだろうとも、彼らの暴力行使は彼
らを生の空間から引き離す。・・・暴力によって愛の国を造り上げ、自由の国までも造り上げる者はいな
い。それゆえ無力な者はこの愛の国に方向を定めている。彼らは決して権力の誘惑に陥らず、この誘惑に
屈してこの相続財産を失う状況に陥らない。それゆえ、こう述べることができる。暴力を用いない無力な
者たちは幸いである。彼らはこの世を遺産として相続するだろうから」(ヴェーダー)。
・私たちも無力な者(柔和な者)の一人として、権力の誘惑に陥らず、柔和な主イエスに従って、地を受
け継ぐ者として生きて行きたいと願います。