なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(18)

   「地の塩・世の光」 マタイ5:13-16、2019年1月13日(日)船越教会礼拝説教


・先程司会者に読んでいただきました、マタイによる福音書5章13節から16節には、〈あなたがたは地に

塩である〉(13節)、〈あなたがたは世の光である〉(14節)という、有名なイエスの言葉があります。


・この≪あなたがた≫とは、誰のことを指しているのでしょうか。


・マタイ福音書の文脈からしますと、この≪あなたがた≫は弟子たちを指していると思われます。私たち

の多くも、この<あなたがた>と呼びかけられているのは、弟子たちであり、私たちキリスト者であり、

教会であると、これまで理解してきたのではないでしょうか。


・わたしの尊敬する井上良雄先生に、「地の塩・世の光」という、マタイ福音書のこの箇所に基づいた説

教があります。井上良雄先生もその説教の中で、〈この「山上の説教」で、弟子たちが主要な登場人物

で、群集は脇役・傍観者・傍聴人ではありません。むしろ、彼らこそ、主要な登場人物なのである〉と

言っています。けれども、地の塩・世の光については、弟子たちを、すなわち〈キリスト者一人一人、ま

た教会〉を指すものとして、その説教では語られています。その井上先生の説教を短く紹介したいと思い

ます。


・〈14節で、主イエスは、弟子たちに「汝らは世の光なり」と語り給います。しかし、この御言葉は、私

たちを驚かせます。なぜかと言えば、ここでは、「汝らは世の光たるべし」とは語られずに、「汝らは世

の光なり」と語られているからです。もしこれが「世の光たるべし」というのであれば、たといそれがど

のように厳しい要求であっても、それは不可解な言葉ではありえません。そのような言葉は、私たちは、

世の道徳家や教育者から、いつも聞いています。しかし「汝らは世の光なり」とは~それは、不可解で驚

くべき言葉だと、言わざるを得ません〉。


・〈しかし、それだけではありません。私たちがこの御言葉に驚くのは、主御自身が「われは世の光な

り」と語り給うているのを、思い出すからです(ヨハネ8:11)。主はここで御自身について語られている

のと同じ言い方で「汝らは世の光なり」と、語り給います。主は、ご自身についてだけ用いることができ

るはずの「光」という言葉を、弟子たちを、また私たちを、また教会を、ご自身と等置し給うということ

ではないでしょうか。したがって、これは、実に驚くべき御言葉だと、言わざるをえません〉。


・もちろん、そのような「弟子たち、私たちキリスト者、そして教会」は〈地の塩・世の光〉として世の

中に置かれたものであり、福音の証人たちの群れであり、あのガリラヤ湖畔の山上の弟子たちがそうで

あったように、私たちを取り囲む世に仕えるために集められた群れなのです。もしそのことを私たちが忘

れるならば、すべては空しい、と言わなければならないでしょう」。


・すなわち、〈弟子たち、私たち、教会〉は、世に仕えるために選ばれたのであって、自分たちの「慰め

や平安や喜びだけを、教会生活に求める場合、私たちが求めるそれらのものさえ、私たちには与えられな

いということも、知らねばならないでしょう。その場合には、私たちは、あの『己が生命(いのち)を救

わんと思う者は、これを失い・・・』(マタイ16:25)という主の鋭く厳しい御言葉を、聞かなければならな

いでしょう」。そして〈もちろん、主は、私たち一人一人の慰めや平安や喜びをも、無視されはしませ

ん。しかし、主にとって重要なのは、世界全体の救いであり、人間全体の解放です。あの山上の弟子たち

を囲んでいた、悩み苦しむ群衆全体の救いです。そのためにこそ、主は弟子たちを召し給いました。その

ためにこそ、主は地上に証人たちの群れとして、教会を建て給いました。私たちがそのような主の目的に

従って、そのために働くときにこそ、そのような働きの中で、私たち一人一人の慰めと平安と喜びも「付

随的に」(バルト)与えられるに違いありません〉。


・少し長くなりましたが、井上良雄先生の説教を要約して紹介させてもらいました。私は、この井上先生

の説教をはじめて読んだ時に、すごく感動しました。井上先生の説教におきましても、「地の塩・世の

光」は、弟子たちであり、私たちキリスト者一人一人であり、教会だと言われているのであります。


・しかし、マタイの文脈ではなく、イエスが〈「あなたがたは地の塩である」。「あなたがたは世の光で

ある」と語られた時に、そこで言われていた「あなたがた」とは弟子たちだったのでしょうか。もしかし

たら、さまざまな病や患いに悩む群衆の一人一人だったのではないでしょうか。ユダヤ人は、病人を神の

祝福から遠ざけられた人たちと見なして、「罪人」よばわりしていたのです。そのような人たちに向かっ

て、「あなたたちが地の塩、あなたたちが世の光なのだよ」と、イエスは言われたのではないでしょう

か。そのように思えて、仕方ないのです。


(以下は本田哲郎『釜ヶ崎と福音』102頁かによる)

・ある人はこのように言っています。〈わたしたちは、聖書の言葉を教会で聞くものだから、「教会の、

この信徒席に座っているわたしたちが地の塩だと言われているのだ。頑張らなくちゃ」と思ってしまう。

「わたしたちが世の光として、一隅を照らすように頑張らなくちゃ」と。たしかに、一人ひとり、みんな

頑張っていると思うのです。頑張ってきたと思います。けれども、結果どうでしたか。まぐれで、なにが

しかの影響を与えることはありますよ。相手の人に、「あなたが訪ねて来てくれたおかげで元気になりま

した」と言ってもらえることもあるでしょう。でも、そりゃたまたまですよ。信者だから、洗礼を受けて

キリストの力と恵みがわたしに満ちているから、その人に喜びを伝えることができたのではないでしょ

う。正直なところ。「力は弱さの中にあってこそ発揮される」ものなのです〉と。


・イエスは、「あなたたちは地の塩である」といい、さらに続けて「だが、塩に塩気がなくなれば、その

塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけら

れるだけである」(マタイ5:13)と言っています。今の教会に集まっている私たちは、多少知的で、ある

程度経済的にも恵まれていますから、どうころんでも外に放り出されて、踏みつけられることなどないで

すよね。そこそこ社会でふつうに過ごすことができます。イエスが話しかけている相手である群衆は、ほ

んとうに貧しく小さくされ、社会で箸にも棒にもかからないと思われている軽んじられている人たちで

す。その自分のその小さくされているがゆえにとぎすまされた感性、本物と偽物を見分ける洞察の鋭さ、

それが塩味なんだよと。それを失ってしまったら、それこそ放り出されて、踏みつけられるのは目に見え

ていると、イエスは言っているのではないでしょうか。


・〈社会の底辺に置かれ、周囲に押しやられている人たちはみなそうなのです。ただ強い人たちのいいな

りになっていたら、黙っていたら、それこそ踏み潰されて形無しです。寄せ場に来ざるを得なかった労働

者の人たちも、感性がほんとうにギラギラ輝いている。しかし、それが世間の価値観と違うので、「これ

はいっちゃいけないんだ」とか、「行動に移したら、どうせ押しつぶされる」と、自分でまたそれを押さ

え込んでしまう。自分で、塩味を失わせてしまうことが多い。でも「そうじゃないんだ。あなたがいま小

さくされているがゆえに、いまあなたが持っている価値観は、みんなが学ぶべき大事なものなんだ」と、

エスは励まされているのです〉。


・〈そして、「あなたがたは、世の光である」につづいて言われていることも同じことです。「ともし火

をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く」人は灯火をともして升の下に置くようなことはせ

ず、燭台の上に置く」(マタイ5:15)。ルカ福音書では、「ともし火を」として、それを器で覆い隠した

り、寝台の下に置いたりする人はいない。入ってくる人に光が見えるように、燭台の上に置く〉(ルカ8:1

6)と言われています。これは、世の小さくされた人たち、弱い立場に立たされた人たちは、簡単にそうい

う扱いを受けていると言っている。ともっている火を升でおおってしまうような人権無視の扱いを日常的

に受けている。火をともしているのだけれども、それを寝台の下の奥の方に隠しておかれなければならな

いようにしいられている。「せっかくともっている光は、燭台の上にぽーんと置きなさい」。そうすれ

ば、みんながその光に照らされて、「ああ、そうだったのか」と、大事なことに気づくようになる〉。イ

エスはそう言っているのではないかと。


・私は、先日慰安婦の証言を描いた「沈黙」という映画を観て、〈あなたがたは地に塩である〉(13

節)、〈あなたがたは世の光である〉(14節)というイエスの言葉が、この慰安婦の方々のように「社会

の底辺に置かれ、周囲に押しやられている人たち」に向けられた言葉ではないかと、改めて思わされまし

た。慰安婦の方々が訴えられていることは真実の光ではないでしょうか。その訴えを聞き、日本の国は謝

罪し、二度と再び軍隊による戦争のない、平和な社会を私たちがつくることが、すべての人にとって望ま

しいことではないでしょうか。


・井上先生が、「主にとって重要なのは、世界全体の救いであり、人間全体の解放です。あの山上の弟子

たちを囲んでいた、悩み苦しむ群衆全体の救いです。そのためにこそ、主は弟子たちを召し給いました。

そのためにこそ、主は地上に証人たちの群れとして、教会を建て給いました。私たちがそのような主の目

的に従って、そのために働くときにこそ、そのような働きの中で、私たち一人一人の慰めと平安と喜びも

「付随的に」(バルト)与えられるに違いありません」とおっしゃっていますが、それは、この世で小さ

くされているがゆえに、その方々が持っている塩味や光を大切にして、それに覆いをかけしまう力に抵抗

して、その塩味を取り戻し、光を輝かせるために共に生きる者の群れが弟子たちであり、私たちキリスト

者であり、教会なのではないでしょうか。


・今日は、「あなたがたは地の塩である」。「あなたがたは世の光である」と言うイエスの言葉から、そ

のことをみなさんと分かち合いたいと思いました。



・祈ります。

 神さま、イエスは、この世で小さくされた人々の、覆い隠されてしまいがちな感性と鋭いまなざしと言

葉こそが地の塩、世の光であると、おっしゃっているのではないかと思います。どうぞこの地の塩、世の

光を覆うこの世の力に抗って、共にその塩味を落ち続け、光を輝かせる働きに、私たちも参与していくこ

とができますように導いてください。

 今日礼拝に集うことができなかった私たちの仲間の一人一人の上にも導きをお与え下さい。塩味と光を

持ちながら、世の片隅に追いやられている人々の上にあなたの恵みを豊かにお与えください。

 この祈りを、イエスのお名前を通して祈ります。    アーメン。