注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。
(各自黙祷)
② 招きの言葉 「もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ高低のある地は平らになり、険しい所は平地になる。こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。」
(イザヤ書40:4-5)
③ 讃 美 歌 19(み栄え告げる歌は)
https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-019.htm
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編19編8-11節(讃美歌交読文21頁)
⑥ 聖 書 ルカによる福音書21章25-33節(新約152頁)
⓻ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 240(「主イエスは近い」と」
https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-240.htm
- 説 教 「身を起こす」 北村慈郎牧師
パウロはイエス・キリストを信じて生きる者にとって為すべきことはただ一つであると、フィリピの信徒への手紙でこのように述べています。
「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3:13b~14)と。
パウロはここで、イエス・キリストを信じる者を、ゴールを目指してひたすら走るランナーに譬えているのであります。ランナーは身を起こしてないと早く走ることはできません。身を屈めていたのでは早く走ることは出来ないからです。ゴールをしっかり見定めて、ゴールに向かって走るランナーは身を起こして全身の力を集中して走るのではないかと思います。
その目標を、パウロは「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞をえるため」と言っているのであります。これはどんな賞なのでしょうか。
パウロは、この賞についてこのようなことを考えていたのではないでしょうか。それは、私たちがイエス・キリストの贖いによって罪赦されて、イエス・キリストと同じように全き神の子とされることということではないかと思うのです。つまり文字通りイエスの兄弟姉妹に私たちが変えられることではないでしょうか。
神の国が到来して、私たちが神の国の住人になるということは、私たちが神の独り子であるイエスの兄弟姉妹になるということだと思うからです。
信仰においてパウロはそのような自らと隣人の将来を望み見ていたのではないでしょうか。その目標を目指して、一人の信仰者のランナーとして身を起こしてひたすら走る。それがパウロの言っていることだと思うのです。
初代教会の信仰者にとって、先ほど司会者に読んでいただいたルカによる福音書21章25節以下に記されていますように、世の終りは自然の崩壊現象によって譬えられていたようです。
「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである」(21:25-26)。
この世の終わりである終末の到来は、教会とキリスト者にとっては、再臨のキリストの到来によって世界中に散らされている神に選ばれた者が一つに集められる時でもあります。
それは喜びの時、希望の時でもあります。
「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(21:27-28)。
ルカによる福音書では、「身を起こして頭を上げなさい」という勧告は、21章34節以下では「目を覚まして祈りなさい」(21:36)という勧告に言い換えられています。
「目を覚ましていなさい」という勧告は、私たち人間はイエスが実践した神への献身を忘れてしまい、無価値なものに頓着するという危険に常にさらされているということを前提にしています。その際、差し迫る危険に視野が限定されることもあれば、無頓着がもたらす結果、即ち人の子に認められないことまで視野が向けられる場合があります。したがって、「目を覚まして」は信仰における油断なき(注意深さ)忠実さをその内容とするのであります。
「身を起こして頭を上げなさい」という勧告は、「目を覚まして、人の子の到来を待ち望み」つつ、なすべきことを黙々となしていくということではないでしょうか。「目をさましている」ということは、一面で現実を直視するということでもあります。どんなに不条理と思える現実であっても、それを直視し、なすべきことをなして生きていくことです。
なすべきこととは、極めて単純なことです。神を待ち望みつつ、神を信じて人として他者と共に生きてゆくことです。それは、私たちにとってイエスをみならって一日一生という、その都度、その都度与えられた命を大切にして、他者と共に私たちすべての人の命の創造者であり、保持者であり、救済者である方を信じて、互いに愛し合って生きるということではないでしょうか。
今日はアドベント第2主日です。アドベントとは、教会の暦でイエスの誕生であるクリスマスを待ち望む時期を意味します。教会においてイエスの誕生であるクリスマスを祝い、クリスマスを待ち望むようになる前に、初代教会ではキリストの再臨を待ち望んでいました。
預言者イザヤも、主の日の到来を示す終わりの日について語っています。「終わり日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる」(2:2)。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(2:4)と。
このイザヤ書の終わりの日についての預言では、その日には、すべての人間の罪と争いが裁かれて、神の救いが完成するのです。剣や槍という昔の人が戦いのための武器にした道具が、鋤や鎌という昔の人が畑を耕したり、草を刈り取ったりする道具になり、もう絶対にどんな国も他の国と戦争をすることがなくなるというのです。それが、神が最も望まれることで、神がこの地上にやってこられる時には、その神のみ心が実現するというのです。
ある人は、「もしイザヤが、この救いの日の到来を、現代のことばで語ったなら、どう表現したでしょう」と言って、このように言っています。「核兵器やミサイルの製造に使うお金が、飢えている人びとに還元され、一部の人に独占されている土地が、家のない人びとの住まいとなる」と。
わたしたちは、皆が武器を捨てて、争いをやめ、互いに助け合い、すべてを分かち合い、共に生きるようになる世界が来ることを、待ち望んでいます。救いの日とは、それが実現する時だと。その日には、すべてのものが、イエスと共に神のもとに集められ、人類があらゆる罪と争いの奴隷状態から解放されて、まことの平和が実現すると言うのです。
信仰とか忠実とかいう概念は、行為と切り離された精神的な態度や心の持ち方ではなく、具体的な生活や振る舞いにおいてのみ認められる行動原理なのであります。
しかし、その行動原理は自分から何かを仕掛けるということよりも、目をさまして、身を起こして主の到来に備えること。待つことであると語られているのであります。
演出家の竹内敏晴さんと哲学者の木田元(げん)さんの対談が本になっています。前にもご紹介したことのある『待つしかない、か。~二十一世紀の身体と哲学~』という本です。この本の中で竹内敏晴さんは「待つこと」について、このように述べています。
≪私は無明を抱えて(煩悩にとらわれて)、なんとか愛智の道を学ぼうと努めるに過ぎないものなので、「しぶとく生きる」という言い方しか見つまりませんが、これは「待つこと」でもあろうかとは思っています。「待つ」とは何もせず坐っていることではなく、仕掛けよう支配しようとすることを絶つこと、生起して来るものへ向って身を謙虚に保ちつづけることだろう、と」。
そして、こんなことを言っています。「仮面のレッスンに『火になって燃える』という課題があります。表情のない面を着け床(ゆか)に横たわって、ただしんと集中を深めてゆくと、突然からだの内から波うつ火が噴き上げて来る。この「来るものを待つ」には自分を澄んだ一点に、と言ってもよいし、ただカラッポになって、と言うこともできる。自分を追い詰めつづける正確さが要ります。エネルギーを使い果たすような、この身を澄ます努力が「待つ」ということだろうと思う。」と。
目をさまし身を起こして来るべき主の到来に備えるとうことは、イエスを自分の中に迎え入れるということではないでしょうか。「生起してくるものへ向って身を謙虚に保ちつづける」とき、生起してくるものに私たちは自分のからだを明け渡すことができるのでしょう。
私たちは今の世の中を憂えます。もっと人の命と生活が脅かされない、平和で安心して暮らしていける世の中になってもらいたいと。おそらく多くの人がそのように思っておられるでしょう。
けれども、現実はなかなか良い方向にはいかずに、むしろますますひどい状態になっていくのではないかと不安になります。そして絶望してしまい、投げやりになってしまう危険性があります。そのような中で、それでも希望を持ち、あきらめないで生きる力を与えられたいと思うのです。
ナチの時代の強制収容所の生活を描いた『夜と霧』の作者、ヴィクトール・E・フランクルは「もはや何一つ変えることができないときには、自分たち自身が変わるしかない」と言っています。
「強制収容所」という状況を変えることができないわけですが、フランクルはその強制収容所に入れられて、「自分自身を変えるしかない」と考えて、絶望的な状況の中で、絶望せずに希望を持ち続ける自分自身に変えて、生き抜いたということではないでしょうか。
わたしたちも、毎日の生活に忙殺されて神の呼びかけに鈍感にならないよう、つとめたいものです。神のみこころがどこにあるか、探し求めながら、イエスが再び来られる日に向けて、一日、一日を、悔改めて「目覚めて身を起こして生きる」ことができますように。
待降節の日々は、特にわたしたちにこのことを思い起こさせてくるのではないでしょうか。
祈ります。
- 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
- 神さま、今はアドベントの時期です。主イエスの誕生を待ち望む季節です。平和を阻害する戦争や格差や差別が強まっているかに見える現在の世界の現実の中にあって、主イエスの再来による神の国の完成を信じ、その終りと目標に向かってに「目覚めて身を起こして生きる」ことが出来ますように、私たち一人一人を導いてください。
- 今苦しみと不安の中にある者に、慰めと平安をお与え下さい。戦争や貧困や差別によって苦しむ者を支えて下さい。正義と平和と喜びである神の支配する神の国が到来しますように。
- 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
- 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
- この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン。
⑩ 讃 美 歌 577(聞けよ、主の民)
https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-577.htm
⑪ 献 金
⑫ 頌 栄 28
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。