なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

理解について

自分で理解したことだけが、/私の持っている唯一・最高の宝である。/闇の支配力にくらべれば、消えてしまいそうなほどかすかだけれど、/たったひとつの灯りであることにかわりない。」

ユングの言葉だそうである。北村年子さんの『ホームレス襲撃事件~“弱者いじめ”の連鎖を断つ~』という本の表題の裏ページにあった。


事柄の本質を理解するとうことは大変難しいことだ。私たちは多くの場合、事柄の本質を理解できないまま、不可解非合理な日常に投げ出されて、何も考えられずに溺れまいと必死に泳いでいるのが精一杯なのではないか?

そして藁をもつかむ思いで救済を求めた宗教が、救済どころか、何も考えないで生きることを奨励する麻薬のようなものであったりするのではないか? そんな宗教につかまってしまったら、たまったものではない。

私はキリスト教の牧師であるが、キリスト教にもこの麻薬のような危険性があると思っている。であるから、私はキリスト教を無条件によいものだとは思ってはいない。このひねくれたところが、私の個性ではあるが、時には教会人から誤解される要因となっているのかもしれない。

先日若い時に教会を通して知り合った、少し私より後輩に当たる友人の画家から電話があった。彼は食うために高校の絵の講師をしているが、現在の厳しい社会状況と安易なストレス解消の隆盛に憤慨していた。カウンセリングやマッサージや温泉によっては解決されない問題に真正面から取り組もうとしない今の世の中に苛立っているのだ。

確かに今は心理学ばやりである。心の問題に還元できない社会の問題、特に小泉、安倍移行の規制緩和による資本の激しい競争に晒されている現在の日本社会は異常である。その異常さをそのままにして心の問題と言っても、無理があり、事柄の本質を見誤るおそれがある。

問題の本質を理解し、そこからどうしたらよいかを考える想像力と行動の大切さを忘れてはならないと思う。