なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(182)

 今日は、朝5時半頃に電話があり、船越教会の方で帰天された方がありました。葬儀社の方と打

ち合わせをして、7時頃には鶴巻を出て上大岡のその方のご自宅に向かい、9時頃つきました。召さ

れた方の枕元で祈り、葬儀社の方が到着するのを待ち、葬儀の打ち合わせをご遺族の方として、葬

儀社の方と船越教会に向かいました。その葬儀社は、私の前任の紅葉坂教会でお世話になっていた

所で、船越教会がはじめてですので、葬儀の準備のためにも教会を見て置く必要があったからで

す。一通り船越教会の状況を葬儀社の方に説明し、12時少し前に葬儀社の方を送り出しました。私

は、それから船越の商店街にあるレストランでランチを食べて、午後6時からある教区の常置委員

会まで船越教会で過ごしています。

 さて今日は、「黙想と祈りの夕べ通信(182)」復刻版を掲載します。下記通信の中に出てく

る神戸の教会の方は、その後紅葉坂教会に転入会して、今は千葉の教会にいますが、私の裁判支援

会の事務局員を引き受けてくれています。


        黙想と祈りの夕べ通信(182[-25]2003.3.23発行)復刻版

 今日の礼拝に神戸の教会の方が出席しました。1977年の夏だったと思いますが、私も神戸に行

き、阪神・淡路大震災の被災の状況を兵庫教区の方に案内していただきました。その時、いくつか

の教会にも連れて行っていただきました。その内の一つが今日礼拝に出席された方の所属する教会

でした。礼拝の新来者紹介の時には思い出せませんでしたが、当時その神戸の教会は地震により崩

壊した教会堂は取り払われ、教会の敷地は更地になっていて、新しい教会堂の基礎のコンクリート

が打ってありました。当時のその教会の牧師であったKさんに案内していただいて、その現場を見

せて頂いたのを思い出しました。地震が起きてから8年が経過しました。地震のありました195

5年は大変な年でした。1月17日に地震が、そして3月にはオーム真理教の地下鉄サリン事件

起きました。阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件は、それまでの災害や殺人事件の範疇を越え

た、未曾有の出来事であり事件でした。大都市の生活基盤がいかにもろいものであるかというこ

とを地震は私たちに突きつけました。地下鉄サリン事件は、殺人という行為が無差別に行われ、地

下鉄に乗り合わせて命を失ったり、サリンの後遺症で苦しんでおられる方々は、たまたまあの時間

に地下鉄に乗っていたというだけでした。通常起こる殺人事件は、殺す人と殺される人の間には何

らかの因果関係が前提とされるように思われますが、地下鉄サリン事件はそういうものが全くない

ところで起きました。ある人は、阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件によって、私たちの社会が

今までのパラダイム(ある時代を代表するものの見方、考え方のこと)では捉え切れない新しい段

階になっていると言っています。いずれにしろ、私たちは震災の記憶を大切にして、出来る支援を

続けて行きたいと思います。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。私は障がい児の在宅支援の働きをして

いるグループに属している。そのグループには保母や看護士の若い方がいる。その中に数名最近仕

事をやめた人がいる。彼女らはみな優しい。介護保険によって障がいのある子どもも対象になるの

で、今度その在宅支援のグループNPO法人を立ち上げることになった。仕事をやめた若い人たち

がその準備のために生き生きとしている。勤めていた現場で働いているときには、仕事に追われ

て、ゆっくりとクライエントに接することもできず、矛盾を感じて止めざるを得なかったのだろ

う。彼女らはそれぞれ優しい人で、割り切って仕事をすることができず、今の社会の現実に適合で

きないところがあるように思われる。彼女らに接していると、今の社会の仕事優先ではない、優し

さのゆえに生き難い社会から、少ないものを分かち合う社会にしていかなければと思う。そして、

引きこもりの人や彼女らのような人が生きていかれる道が出来たらいいなーと思っている。

 また別の人からの発言がありました。今日は日曜学校中高科の子どもたちと映画を鑑賞した。映

画館に入る前にランドマークで共に昼食を取り、楽しい時をもつことができた。出演者が日本に来

たとき、「石油のために血はいらない」と書いたTシャツを着ていた。物語は善悪二元論である

が、出演者のTシャツのメッセージを考えながら映画を観ていて、自分たちのやっていることは何

なのかという問いかけを常にしていかないかと、精神構造的にはアメリカと同じことをしているこ

とがあるのではないかと思った。改めて謙虚にならなければならないと思わされた。子どもたちと

楽しいひと時をもたせてもらったことと共に感謝である。

 またこの日礼拝に出席された神戸の教会の方の発言がありました。自分は去年の6月にそれまで

勤めていた会社を余儀なく退社し、今回横浜で仕事を紹介されて、こちらに来ている。現在神戸の

町並みは復興したが、子どもたちの心のケア―の問題など、今も多くの問題を抱えている。紅葉坂

教会からの支援を感謝している。自分は少人数の教会で信仰生活をしているので、人数の多い「大

きな」教会の牧師はみんなをまとめる人ということで、いささか違和感をもっていたが、今日は認

識を新たにさせられ、横浜で働くようになったらこの教会に転会したいと思う。



    「ただ神のみこころを」(『ルターによる日々のみことば』より)

 「みこころがおこなわれますように」 マタイ26:42

 聖なる神のみこころがすべてに行なわれ、自分のおもいを決して求めないこの人は、いったいだ

れでしょうか。それゆえ、こころからこの祈りがどんなに重要で必要であるかを学び、どれほどの

熱心さをもってこの祈りを祈らなければならないかを学びなさい。また、わたしたちの思いが殺さ

れ、神のみこころのみがなることがどれほど大きなことであるかを学びなさい。このようにして、

あなたがたは罪人であり、神のみ旨をなすに無力であることを告白しなければなりません。それか

ら、神の欠けたところを許し、求められたことをすることができるように助けてくださいと、恵み

と援助を祈り願わなければなりません。神のみ旨がなるために、わたしたちのおもいが滅ぼされな

ければなりません。両者はあいいれないものだからです。わたしたちの主、キリストがゲッセマネ

の園で杯を取り去ってくださいと天の父に祈られた時ですら、「わたしの思いのままでなく、みこ

ころがおこなわれますように」と祈られたことに注目しましょう。つねに善そのものであり、最善

であったキリストの思いですら、父のみこころがおこなわれるためには、とどまらなければならな

かったとすれば、みじめなみすぼらしい虫にすぎないわたしたちがどうして自分の思いに栄光を帰

することができるでしょうか。わたしたちの思いはいつも悪に染まり、妨げられるのに十分の価値

があります。

                       単純な信徒のための主の祈りの講解