ここしばらく何かと忙しく、このブログに掲載する時間的余裕もなく過ごしてきました。4月から農伝講
師をまた引き受けていますので、行くのは1日ですが、準備を含めると週の内2日が必要ですので、当然今ま
でのようにはいきません。先週はほとんど毎日集会があり、鶴巻から船越から出かけていましたので、特に
あわただしく過ごしました。昨日農伝に行って、やっと一段落です。今週は金曜日に寿地区活動委員会があ
るだけで、特に今日明日はゆっくりできます。
ということで、久しぶりに船越通信(260)を掲載します。
船越通信癸横僑亜 。横娃隠暁5月8日
・5月1日(日)の礼拝には、私が船越教会で牧師として働くようになって満5年が過ぎますが、はじめて横
須賀学院の中学1年生の男子生徒が2人礼拝に出席しました。この日の礼拝はエレミヤ書14章1-12節の「干
ばつの災い」(新共同訳表題)がテキストでしたので、できるだけ中学生にも分かり易く話さなければと意
識して、原稿から少し離れて話したりしました。そのため自分の思い描いていた話の筋から離れてしまし、
話しの流れがスムーズに繋がらないところも出て来てしまったように思います。以前紅葉坂教会時代には、
時々女学校から中学生や高校生が聖書科の宿題で礼拝に来て、宿題の紙には礼拝の時間とか牧師の名前を書
く欄と共に説教の要旨を書くところがあり、礼拝後私が対応することが時々ありました。そのようなときの
私は、宿題で礼拝に出席させられるということはそもそも私には了解を超えたことでしたので、出席した子
どもたちが求めることに無条件でできるだけ応えるという原則を貫きました。時には子どもたちに説教の原
稿をそのまま渡したこともあります。しかし今回の横須賀学院の子どもたちの持って来た宿題の紙には説教
要旨の欄はありませんでしたので、牧師名の欄には「代務者:関田寛雄、協力牧師:北村慈郎」と書きまし
た。この日礼拝に出席した中学1年生の子どもたちが歩むこれからの日本社会は、ますます矛盾が露呈して
きて、さまざまな所で綻びが現れてくるでしょうから、なかなか厳しいのではないかと想像いたします。こ
の日礼拝に出席した2人中学生とその仲間たちに主の導きを祈りたいと思います。
・2人の中学生は皆に勧められてお茶の会にも残っていきました。お菓子を口に入れ、ジュースを飲んで、
私としばらく懇談していきました。私も横浜の関東学院で中学高校を過ごしたことを話しましたら、少し興
味を持ってくれたようです。しばらく懇談して帰って行きました。
・この日は懇談後皆が帰った後、2,3の課題をこなし、夕方5時過ぎに船越から鶴巻に帰りました。この
日はまだリフレッシュ@神奈川の保養プログラム中でしたので、連れ合いはこの日も福島の家族が宿泊して
いるナビオスに泊まりました。翌日2日に福島から来た家族が全て帰りますので、その家族を送り出してから、
連れ合いは鶴巻に帰ってきました。帰って来た草々保養プログラムに参加した家族のアンケートの整理をし
ながら、皆が心から喜んでくれたことを知って、福島での生活の厳しさを思うと、この保養プログラムの長
期の継続をどうしてもやり遂げたいという思いを新たにしているようでした。私も同じ思いです。
・5月3日は憲法記念日で、集会が有明で行われましたので、私も10時半過ぎに鶴巻を出て有明に向かいまし
た。海老名から横浜に出て、浜松町からゆりかもめに乗って有明まで大分時間がかかり、集会の場所に着い
たのは午後1時過ぎになっていました。すでに本集会がはじまっていて、100歳を過ぎたむのたけじさんの発
言がスピーカーを通して会場全体に響いていました。むのたけじさんは、「私たちの世代は憲法9条のお蔭で、
一人も戦場に送らないできた」と、とつとつと語りかけていました。政党代表者からの挨拶では、最後に山
本太郎と生活の党から小沢一郎が発言しました。小沢一郎は、前の人たちが縷々述べたので自分は一つだけ
と、「安倍政権を倒すためには選挙に勝たなければならないので、7月の選挙にはぜひよろしく」と語ってい
ました。小沢らしい一言でした。その後様々な運動体を代表しての発言があり、最後に二手に分かれてデモ
行進がありました。私はたまたま会場の最後部の芝生に座っていましたので、その近くに出口があり、そこ
から豊洲までのデモ行進が行われましたので、その先頭の群れの中に入らせてもらいました。約40分ぐらい、
有明の会場から豊洲まで、人が行きかうところはほとんどなく、高層マンションからデモ隊にエールを送っ
てくれる人がたまにありましたが、デモ行進をしました。帰りは地下鉄有楽町線有明駅から池袋に出て、新
宿に行き、小田急で鶴巻温泉駅までのルートで帰って来ました。主催者発表ではこの集会参加者は5万人と
いうことでした。
・5月4日の休日には、鶴巻に娘が来ていて、連れ合いが出かけていましたので、私は娘に誘われて、私の
上の姉が埋葬されている無量寺という伊勢原のお寺の墓に墓参りにいきました。こんなことは鶴巻に来て5年
が過ぎますが、初めてです。保土ヶ谷の仏向にあるお寺に父と母が埋葬されていて、亡くなった兄の家族が
その墓の世話をしていますが、そのお墓にも法事などで行くことはありましたが、自主的に墓参りをしたこ
とはありません。家族についてはそれぞれ様々な思いを抱いているに違いありません。私も自分の育った家
族についてはどこかに負い目のようなものを感じています。その負い目とは何かと言えば、私は自分の家族
の中では一人だけ高校3年生の秋から教会に行くようになり、高校3年のクリスマスに洗礼を受け、21歳の時
に神学校に入り、27歳で牧師になって現在に至っております。ちょうど高校3年の頃から27歳で牧師になるま
での約10年間、特にその最初の3~4年は、私の家族は父が勤めていた会社(実質的には父が仕切っていた)
が倒産し、母が筋萎縮症で寝たきりの厳しい状態にありました。私は高校卒業後、父が他の人と始めていた
仕事を手伝っていましたが、高校卒業して2年後に母が亡くなったのを契機にして、その父の仕事の手伝いを
辞めて神学校に入学しようと決めていました。その後父の説得を振り切って、家出同然の形で神学校に入学
しました。私は大学院入学の時に結婚しましたが、その頃には父もあきらめていましたので、父との関係も
神学校入学時とは違って、ある程度和解していました。私にはすでに亡くなっている3歳年下の妹がいました
が、その妹からある時「慈郎ちゃんはずるい!」と言われたことがあります。その意味は、私が家族の絆を
断ち切って、自分の好きな事をしているという意味だと、私は理解しました。また、これも亡くなった3歳上
の兄と私のことを良く知っていて、父の仕事仲間の人が、「慈郎くんより、岳敬(兄の名前)さんの方が偉
い」と言ったことがあります。この人の言葉も妹が言ったことと同じ意味ではないかと思います。そういう
こともあって、私は自分が牧師であることに、今でも自分の育った家族にある種の負い目を感じていて、家
族の絆を断ち切って牧師になったことを正当化することはできません。