なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(37)

    「水を求めても」エレミヤ14:1-12、2016年5月1日(日)船越教会礼拝説教

旧約聖書申命記にこのように書かれています。イスラエルの民が戒めを守るなら、秋の雨、春の雨を与え

るが、守らなければ、天が閉ざされて雨が降らなくなると。<もしわたしがあなたたちに命じる戒めに、あ

なたたちがひたすら聞き従い、あなたたちの神、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして仕えるならば、わた

しは、その季節季節に、あなたたちの土地に、秋の雨と春の雨を降らせる。あなたたちは穀物、新しいぶど

う酒、オリーブ油の収穫がある。わたしはまた、あなたの家畜のために野に草を生えさせる。あなたは食べ

て満足する。あなたたちは、心変わりして主を離れ、他の神々に仕えそれにひれ伏さぬよう、注意しなさい。

さもないと、主の怒りがあなたたちに向かって燃え上がり、天は閉ざされるであろう。雨は降らず、大地は

実りをもたらさず、あなたたちは主が与える良い土地から直ちに滅び去る>(11:13-17)。

・これは申命記的な歴史家の解釈ですが、おそらくエレミヤもイスラエルの民を襲った「干ばつ」を、その

ように受け止めたと思われます。先ほど司会者に読んでいただいたエレミヤ書1章1節から6節にはこのように

記されています。<干ばつに見舞われたとき、主の言葉がエレミヤに臨んだ>と言われていて、渇きによっ

て苦しむユダとエルサレムに住む住人の叫びが語られ、貴族によって貯水池に召使が遣わされても、水がな

いので、空の水がめをもって、頭を抱えながら帰って来ると言われています。干ばつによって農夫も頭を抱

え、青草がないので、野の雌鹿は子を産んでも捨てる。野ろば裸の山に立ち、山犬のようにあえぎ、目がか

すむと言われています。長い間雨が降らず、干上がった大地に、なすすべもなく、呆然と立ち尽くす、人間

と他の動物たちの姿が赤裸々に描かれています。

・このような干ばつによる同胞イスラエルの人々の窮状を見て、神が雨を降らせて下さるようにと、エレミ

ヤは神への執り成しの祈りをしたこともあったようです。しかし、7節から9節までに記されていますエレミ

ヤの祈りは、単なる執り成しの祈りではありません。

・エレミヤは、<我々の罪が我々自身を告発しています。・・・我々の背信は大きく、あなたに対して罪を

犯しました>(7)と語り、イスラエルの民が罪を犯したことを認めています。その上で、<主よ、御名に

ふさわしく行ってください>(7)と神に嘆願しているのです。そして神に向かって問いを発します。この干ば

つという危機に瀕しているイスラエルの民の現実にあって、<イスラエルの希望、苦難の時の救い主である>

(8)あなたは、<なぜこの地に身を寄せる人(異邦人)のようになっておられるのか。宿を求める旅人のよう

になっておられるのか>(8)、<なぜあなたは、とまどい、人を救いえない勇士のようになっておられるの

か>(9)と。それでもエレミヤは神ヤハウエの信実への信頼を告白しています。<主よ、あなたは我々の

中におられます。我々は御名によって呼ばれています。我々を見捨てないでください>(9)と。

・これはエレミヤの切実な祈りです。イスラエルの民の罪と背信を棚上げにして、雨を降らせて、干ばつに

苦しむイスラエルの民を助けてくれという祈りではありません。イスラエルの民の罪と背信を認めた上で、

一方<イスラエルの希望、苦難の時の救い主>である神ヤハウエへの信頼を持ちながらも、神ヤハウエに向

かって、エレミヤは「なぜあなたは」と問いを発せざるを得ないのです。

・けれども、エレミヤが聞いた神の言葉は、非情にもエレミヤのこの祈りに対して神があくまでも拒否した

もうというのです。<主はわたしに言われた。この民のために祈り、幸いを求めてはならない>(11)。一方

エレミヤは、<主はこの民についてこう言われる。「彼らはさまようことを好み、足を慎もうとしない」。

主は彼らを喜ばず、今や、その罪に御心を留め、咎を罰せられる>(10)<彼らが断食をしても、わたしは

彼らの叫びを聞かない。彼らが焼き尽くす献げ物をささげても、わたしは喜ばない。わたしは剣と、飢饉と、

疫病によって、彼らを滅ぼす>(11-12)と、イスラエルの民に対する最終的審判を告げられるのです。

・こうしてエレミヤは、イスラエルの民に対しては神への執り成しから、神の最終的審判を告げ知らせるこ

とまで、自分自身の立場については、神の召命と派遣に全存在をかけての服従から、それに対する渾身の抵

抗と反問に至る振幅の大きな苦難の道を歩まざるを得ませんでした(木田献一)。

・このことは、私たちに信仰者にとっても同じではないでしょうか。今日の船越通信にも書いておきました

が、29日に福島の家族の保養プログラムで、大人の方の交流会に私も参加しました。その中で一人の母親か

ら、「北村さん、こうすればいいということがありますか」と問われました。決定打がない中で、見えない

放射能との向かい合いの生活のしんどさが、その方の問いかけからひしひしと伝わってきました。私は、

「私にはそれは分かりませんが、私たちに出来ることはこの保養のプログラムを長く続けるという形で、関

わり続けるということではないかと、考えています。『こうすればいい』という決定的なことは分かりませ

んが、あきらめたら現状に流されてしまいますので、あきらめないこと、それと国や東京電力の責任を問い

続けることでしょうか。」という主旨のことを話しました。その時はそれ以上のことは言えませんでしたが、

原発事故で原発を設置することによって引き起こした国と東京電力の罪、その犯罪性を問うということは、

そのことを許してきた私たち自身の共犯性を問うことでもあるわけです。国と東電と私たちと福島の人たち

を全て等しく考えることはできませんが、東電福島第一原発事故に対するそれぞれの責任は免れることはで

きないと思うのであります。

・その責任を担わずに、ただ神の助けを祈っても、神はその祈りには答えられないと、エレミヤは語ってい

るのだと思います。

・干ばつや地震と大津波という自然災害を、人間の罪と背信に対する神の審判(罰)と考える申命記的歴史

家の思想には少し抵抗がありますが、原発事故に関しては、30年前のチェルノブイリーを経験している私た

ちですから、原発の事故の発生を克服していない科学技術にもかかわらず、原発を製造し稼働させている人

間の責任は問われなければなりません。原発事故は、人間の驕りから生まれた、明らかな人災だからです。

人間の驕りは罪であり、背信行為に違いありません。
・ 私は、このエレミヤ書の説教を準備する時と並行して、ノーベル賞作家スベトラーナ・アレクシエ

ービッチの『チェルノブイリの祈り』を読み始めていました。この作家は、チェルノブイリ原発事故に出

会った子どもからお年寄りまで300人くらいの人をインタビューして、その一人ひとりから話を聞き、この

本を書きました。訳者あとがきの中で、著者アレクシエービッチの言葉が紹介されています。

・<わたしはチェルノブイリーの本を書かずにはいられませんでした。ベラルーシはほかの世界の中に浮か

チェルノブイリーの孤島です。チェルノブイリーは第三次世界大戦なのです。しかし、わたしたちはそれ

が始まったことに気づきさえしませんでした。この戦争がどう展開し、人間や人間の本質に何が起き、国家

が人間に対していかに恥知らずな振る舞いをするか、こんなことを知ったのはわたしたちが最初なのです。

国家というものは、自分の問題や政府を守ることだけに専念し、人間は歴史のなかに消えていくのです。革

命や第二次世界大戦の中に一人ひとりの人間が消えてしまったように。だからこそ、個々の人間の記憶を残

すことがたいせつなのです>。

・このアレクシェービッチの言葉を読みながら、この著者の視座は神のまなざしに通じるように思えました。

神が一人ひとりの人間を、土塊から人間の形にして、その鼻に御自分の命の息を吹きかけて、生ける人間に

創造されたとすれば、神はその一人ひとりの個々の人間を、何ものにも代えがたい大切な存在に思われてい

たに違いありません。この神のまなざしと、「個々の人間の記憶を残すことが大切なのです」というアレク

シュービッチの視座とは重なっていると言えるのではないでしょうか。

・そしてこの『チェルノブイリーの祈り』でアレクシェービッチが試みたのは、「恐ろしい話を集めること

ではなく、事実のなかから新しい世界観、新しい視点を引き出すことだった」と言われています。事実この

本を読みますと、国家や企業という枠組みの中での人間ではなく、一人の生活者としての人間って、捨てた

ものではないなあという、自分もどんな苦境の中でも勇気や希望をもって生きて行かなければという促しが

伝わってくるのです。

・この本の最初に出て来るのは、消防士の夫を事故でなくしたリュドミーラという妻の記憶なのですが、こ

の本の解説をしている広瀬隆一はこのように書いています。<放射能はもっとも悲惨な形で人間を死に向か

わせる。驚いたことにこの過程で、リュドミーラの話す言葉、アレクシェービッチの書き記した言葉は光を

放つ。もっとも非人間的な時間の描写で見えてくるのが、驚くべきことに人間の尊厳なのだ。リュドミーラ

放射能による夫の体の崩壊を伝えたくてアレクシェービッチに話したのではない。自分がどれほど彼を愛

しているか伝えたくて話したのだ。/いや愛の力だけではこのような言葉は生まれない。リュドミーラの姿

勢は、人間に力を与える。ある意味で聖書よりも仏典よりも深い勇気を人間に与える。そのような奇跡のよ

うな仕事を、リュドミーラとアレクシェービッチの二人は、語る人とそれを書き留める人という関係でなし

えたのだ」。

・エレミヤの苦悩を越えるものがあるとすれば、この一人ひとりが、その個々人の尊厳と他者への愛をもっ

て生き抜くことではないでしょうか。