現在の競争社会は、経済的にも精神的にも自立した人間でないと、なかなか生き難い社会である。特に構造改革と自由化が進むと、社会的な弱者を保護する力は制度的には弱くなっていかざるを得ない。市民社会の構成員である我々が、成熟した人間となって、社会的弱者へ向ける眼差しを忘れず、人権をはじめ政治的、社会的な権利を保障する思想を身につけ、それを実践する行動力が、制度的な弱体化を補完できる唯一の力ではないか。
現在の我々にはまだその力が十分に備わっているとは思えない。私は、アメリカ社会を良く知らないが、例えば「ホームレス」への支援の働きは、市民レベルでも民間企業でも日本よりもはるかに積極的に行われていると聞いている。税制が違うこともあるだろうが、ヨーロッパやアメリカではお金持ちの寄付によって学校ができ、維持されていたりすることもあるという。
しばらく前から日本でもNPO法人が認められて、活動が活発化している。これは行政に代わって市民運動として、今まで行政が担ってきた問題を民間に肩代わりわさせるという行政側の意図もあるだろう。小さな政府、小さな役所にするには、そうする以外に道がないということでもあるからだ。
経済的にも精神的にも自立した人間ばかりで社会は成り立っていない。しかし、社会の中枢にある人たちや社会のオピニオンリーダーたちの多くは、現在はこういう人たちではないだろうか。これらの人たちの声高な声によって、切り捨てられてしまう人たちがいることを忘れてはならない。
イエスは当時のユダヤ社会の中では声なき声に耳を傾けた。社会から切り捨てられている人たちと交わり、どんな人でも差別・排除されない神さまの国を、彼岸に期待したのではなく、今ここで、生きたのではないだろうか。