なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

軽いニヒリズム

先週旧約聖書コヘレト(集会を召集する者の意)の箇所を説教で取り上げた。この書物は口語訳聖書では「伝道の書」と名づけられていた。その口語訳聖書では、開口一番「伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である」という言葉で始まっている。

ある種のニヒリズムである。重いニヒリズムというよりは、どちらかと言えば、軽いニヒリズムである。コヘレトさんには怒られるかもしれないが。

重いニヒリズムの場合、日々の生活もままならなくなるだろう。生きていても仕方ないのではないか? 自分を追い詰めていくこともあるかも知れない。虚無に耐えるのもなかなか難しいのではないか。身を持ち崩していくこともあるかも知れない。

ところが、コヘレトさんのニヒリズムは、自分は経済的にもある程度豊かで、知識もあって、ある種のミー主義者のニヒリズムなのである。この世の出来事はすべて初めから神によって決定されているのであって、人間が何をしても変えることはできない。だから、他の人はどうでも、自分はまあ毎日を楽しく生活しようではないか。また、それが出来たのである。

「わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である」(口語訳聖書3章12,13節)と。

セレブな人には、おあつらえ向きの言葉ではないか。実際そういう贅沢な生活をエンジョイしている人も、今の日本にも一部いるようだ。ヒルズ族などと言われている人たちもそういう人かも知れない。

果たしてコヘレトのニヒリズムを粉砕する希望の道はあるのだろうか?私には十字架に窮まるイエスの生き様は、コヘレトのニヒリズムを粉砕して余りあるものがあるように思えてならないのである。