なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

母校の礼拝で

先日わたしの中学、高校の母校の創立記念礼拝に呼ばれて、中学生、高校生に話をしてきました。

中学生の礼拝では、コヘレトの言葉12章1節の、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」、口語訳聖書では伝道の書12章1節で、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」をテキストにしました。

説教題は「あなたが独楽だったら」にしました。若い時に人間としての軸を神さま、イエスさまとの関わりにおいて持てたならば、何が起こるか分からない、空しく思えるかも知れない人生を、人間としての尊厳を失わずに、自分らしく生き抜くことができるのではないかと思ったからです。

話が終わって気づいたのですが、独楽は軸がしっかりしていれば、よく回るということを、どこかで話すつもりでしたがすっかり忘れてしまい、折角考えてつけた説教題に触れずに終えてしまいました(ドジ!)。

高校生にはガラテヤの信徒への手紙5章1節、「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」をテキストにしました。

説教題は「自由と愛への招き」としました。わたしが言いたかったことは、自立と共生ということです。

人間はある面で動物というか、欲望によって生きる生物です。ですから、自分の欲望の実現、成就のみを優先する人の生き方は、他の人を蹴落としてでも権力や富を得ようとする上昇志向の大変強い傲慢な人間になり易いわけです。
現実がそのような自分の欲望に立ちふさがり、自分の思うようには生きられないので、文字り赤裸々な欲望人間は、そう多くはいないでしょう。

でも今日の消費文化の中では、過剰な欲望を刺激する情報が至る所にあります。携帯電話は次々に新しいデザインと機能を加え、若者の購買意欲を掻き立てます。現代の資本制社会では私たちは消費人間という奴隷にさせられています。
そういう奴隷化から自由な人間として自立することは、簡単ではありません。私には若いときのイエスとの出会いが、自分の自立の助けになったと思いますし、他者を共に生きるパートナーとして見れるようにもなりましたので、そのお話をさせてもらいました。

中高生が案外静かに聞いてくれたので、一安心です。それにしても、若い人たちにとって現代社会は生きずらいことでしょう。大人である私はそういう社会をつくってきた責任があるわけですから、子どもたちの前で偉そうな顔をして話すことはできません。そう自覚しながら、与えられた責任を果たさせてもらいました。