なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

永眠者記念礼拝説教

  「何事にも時があり」コヘレトの言葉3:1-8、ヨハネによる福音書6:52-59
               
                     2017年11月5日(日)船越教会永眠者記念礼拝説教


・今日は永眠者記念礼拝です。いつものようにこの講壇の前には、船越教会に関係します今までに召された

方々の写真が並べられています。今年は、顔写真はありませんが、8月に当教会の第4代目の牧師であった木

村武志牧師が召されましたので、木村武志牧師もこのお仲間に加えたいと思います。また、いずれにしろ、

今日は、これらの既に天上にある方々も、私たちと一緒に礼拝をささげているという思いをもって、この礼

拝に与かりたいと思います。

・私たちも何れ召される時が必ずやってきます。先ほど司会者に読んでいただきましたコヘレトの言葉3章の

1節には、≪何事にも時があり、/天の下の出来事にはすべて定められた時がある≫と言われています。そ

して≪生まれる時、死ぬとき≫と続いていますので、人が生まれる時も死ぬ時も、このコヘレトの言葉の

著者によれば、すべて神によって定められた時があるのだと言うのです。その時は私たちも天上のお仲間に

入れていただくことになります。

・さてコヘレトは今日読んでいただいた箇所のすぐ後で、「人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一

生を送ることだ」(3:12)と言っています。毎日おいしいご飯が食べられて、楽しく遊ぶことが出来、ゆっ

くり寝ることができること、それが最も幸福な生活だというのです。確かに仕事をしている人や学校に行っ

ている人は、毎日追われるように生活していることでしょう。夜も遅くまで仕事をしている人もいるでしょ

うし、学校の宿題や塾の宿題を夜遅くまでしなければならない子どもたちもいるでしょう。十分睡眠をとっ

て、おいしいご飯をゆっくり食べて、思う存分遊ぶことのできる生活なんて、夢のようだと思うかも知れま

せん。せめて休みのときだけでもそうしたいと、一日中寝ている人もいるかもしれません。ですから、コヘ

レトの言うこともよく分かります。「人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ」。

・けれども、このコヘレトは、このように言ったときに神をどのように信じていたのでしょうか。また、自

分が生きていた社会にについてどのように考えていたのでしょうか。

・まず、神について。コヘレトは神を信じていました。決して信じていなかったわけではありません。コヘ

レトは若者に向かってこう語っています。「青春の日々にこそ、お前の創造主に心をとめよ」(口語訳聖書

「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」)(12:1)。こんな言葉を語っているのですから、コヘ

レトは確かに神を信じていました。けれども、コヘレトは神のなさることは結局人間には分からないと思っ

ていました。これもコヘレトの言葉としてはよく知られているものですが、3章11節に、「神はすべてを時

宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業は始めから終

わりまで見きわめることは許されていない」とあります。ですから、コヘレトは神に祈りませんでした。祈

っても仕方ないと思っていたのでしょう。なぜなら、すべては神によって決定されていると思っていたから

です。決まっているものを祈っても無駄だとコヘレトは考えたのです。これがコヘレトの神についての考

え方です。 
 
・では、コヘレトは彼が生きていました社会についてどう考えていたのでしょうか。コヘレトは何をやって

も社会は変らないと思っていました。この世界は変革不能だと。「人間の良い業が良い結果をもたらし、

悪い業が悪い結果をもたらす」。こういう考え方をコヘレトはしません。神は行為とその結果のつながりを

保証しないと考えていたからです。コヘレトにとって神は勝手気ままに振舞う専制君主のような神でした。

ですから、あらゆる道徳(良き業)は空虚なのです。その社会で苦しんでいる人がいても、コヘレトは何と

か助けなければならないとも考えませんでしたので、そのような人を助けようとはしません。人のことなん

かどうでもいいのです。すべては神によって決められたことなのだからあきらめる他ない。何をやってもだ

めだ。これがコヘレトの考え方です。ですから、「人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送

ることだ」というのです。

・コヘレトを現代の日本に置き換えてみますと、ある程度お金持ちで知識もある人、でも政治や社会について

は無関心で自分の喜びのために生きている人と言えるでしょう。コヘレトはこの世界は変革不能だと言ってい

ても、自分の生活をエンジョイできる人なのです。ある人はこう言っています(クリューゼマン)。「コヘレ

トは、経験できる現実に意味も希望も見出すことはできない。彼の考えはいたるところつねに同じことにぶ

つかり、変革できない権力構造と、結局は偶然とにぶつかる。~したいことはできるが、何も変革できない。

そこから個人の生活を楽しむことへ退くことになるが、それも何も生み出さず、空しい後味を残すだけであ

ることを十分意識している点で・・・・とくに現代的なことと思われる。豊かな境遇にいる批判的な知識人

のもつひそかな、あるいはおおっぴらな絶望は、資本主義の『鉄のような堅固な外枠』の中にあって、ちょ

うどぴったりの感じである」(『いと小さき者の神~社会史的聖書解釈=旧約編』119-120頁)と。何だか

耳の痛い話です。

・ゆっくりおいしいご飯を食べて、こころおきなく楽しく遊び、そして夜もゆっくり寝られるということは

大切なことです。しかし、それができない人が多くいる社会の中で自分だけそうしていられるというのは特

権的な人だけです。何をやってもだめだ、すべては空しい。この諦めに立った「ひそかで、おおっぴらな絶

望の信仰」は、私たちの中にもないとは言えません。しかし、このコヘレトの信仰はイエスの信仰とは大分

違います。コヘレトにとって神のなさることは人間には見極められません。謎なのです。コヘレトは《隠さ

れた神》のもとで人生の大いなる謎の前に立ちつくす人間なのでしょう。人生への深い懐疑は、コヘレトの

ような理性の立場からは答えられません。しかし、このような《自然的人間》の絶望は、福音の光に照らさ

れる時、克服されることが可能ではないでしょうか。ですから、コヘレトの言葉もキリストへの道を備える

書であると評価されているのです。

・以上コヘレトの信仰については、私の説教集『食材としての説教』の中にも、ほぼ同じ内容で記されてい

ることをお断りしておきます。

・さて私たちはコヘレトの信仰に留まっていることはできません。なぜなら、私たちにはイエス・キリスト

がおられるからです。けれども、もしイエス・キリストが指し示している命の道を私たちが見出すことがで

きないとするならば、私たちもせいぜいコヘレトの信仰に止まらざるを得ないのではないでしょうか。現代

の資本と国家が一体となって支配している資本制社会の「鉄のような堅固な外枠」の中にあって「ひそかで、

おおっぴらな絶望の信仰」によって生きる以外にないということです。

・私たちがその一人一人を今日覚えて、共に礼拝を捧げている既に天上に召されたこの方々は、この地上に

あるそれぞれの生涯をコヘレトの「ひそかで、おおっぴらな絶望の信仰」によって歩み、そして召されてい

ったのでしょうか。そうではないと思うのです。この一人一人の方々はその人なりにイエス・キリストを信

じるその信仰によって、神から与えられたこの地上のそれぞれの人生を神の国の到来を信じる希望という永

遠の命をもって生き、そして召されていかれたのではないでしょうか。

・そこでこの永眠者記念礼拝において、天上にある方々と今なお地上を生きている私たちを一つにしている

イエス・キリストの命について、ヨハネ福音書の6章52節以下の聖書箇所から思い起こしたいと思います。こ

の箇所はこの礼拝でもこの後にあります聖餐に関するヨハネ福音書の記事に当たります。

ヨハネ福音書の著者は、この聖餐の記事を6章1節以下に記されています「五千人に食べ物を与える」供食

の物語の枠の中で記しています。イエスが「五千人に食べ物を与える」しるしを行った翌日、イエスを捜し

求めてイエスのところにやってきた群衆に向かって、イエスはこのように語られたというのです。≪はっき

り言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹した

からだ。朽ちる食べ物のためにではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働き

なさい。これこそ人の子があなたがたに与える食べ物である≫(6:27,28)と。すると≪そのパンをいつもわ

たしたちにください≫(6:34)と求める群衆に答えて、イエスは≪わたしが命のパンである。わたしのもとに

来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない≫(6:35)と言ったというので

す。同じことが、その後のユダヤ人との論争の記事の中でも言われています。≪わたしは、天から降って来

た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠の命に生きる。わたしが与えるパンとは、世

を生かすためのわたしの肉のことである≫(6:51)と。その後に、今日のテキストが続いているのです。

・6章56節に≪わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつも

その人の内にいる≫と言われているのです。ヨハネ福音書の著者にとって、パンを食べ、杯からぶどう酒

を飲むという聖餐に私たちが与かるのは、「私たちがいつもイエス・キリストの内にいること、そしてイエ

ス・キリストがいつも私たちの内にいてくださるということ」なのです。互いに愛し合うという戒めによっ

て、神とイエス・キリストと弟子たちの一体性が保たれることが、ヨハネ福音書において重要な教会論の内

容をなしていますが、ここでより端的に聖餐にあずかることがこの一体性のしるしであると言われている

のです。

・6章57節には、≪わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者も私によって生きる≫と言われて

います。神とイエス・キリストと一つであるということは、私たちがイエス・キリストによって生きるこ

とであるということが、ここに明らかにされているのであります。

パウロは、≪自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だか

ら、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません≫(ガラテヤ5:1)と言っています。神

イエス・キリストと一つであるということは、わたしたちが神の子であるということであり、この自由

を与えられているということです。

・ですから私たちはコヘレトの信仰に留まることはできません。現代の資本と国家が一体となって支配して

いる資本制社会の「鉄のような堅固な外枠」の中にあって「ひそかで、おおっぴらな絶望の信仰」によって

生きるのではなく、イエス・キリストによって与えられた自由をもって、その枠を越えて生きていきたいと

思います。既に到来していて、未完成ではあるが、必ずや神による完成が実現成就する神の国を信じ、その

神の国にすべての人が包括されることを希望しつつ、今この地上でのそれぞれの人生を生きていきたいと

願います。この地上での私たちの人生は、資本制社会の「鉄のような堅固な外枠」の中に押し込められて

はいますが、その中でこつことそれぞれの場でその忍耐強くその壁を叩き、少しでもその壁を壊しながら、

神の国をめざして生きる者でありたいと願います。

・そのことにおいて、私たち今生きている者と既に召された者とは、永遠に一つであるのではないでしょ

うか。この今年の永眠者記念礼拝において、先達の信仰の歩みに倣って、私たちもその後に従って歩む新

たな決意をもって、天上に在る方々と私たちが一つであることを確認したいと思います。