なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

確かな神の愛

今日は教会の暦によれば洗足の木曜日です。イエスが弟子たちの足を洗って、仕えの姿を自ら示し、自分に倣って互いに足を洗い合うように教えたとされる日です。

明日は金曜日、イエスが十字架(磔刑)によって殺されて死んだ日です。そして4月16日の日曜日が今年のイースター(復活節)です。

「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」(ヨハネによる福音書11章25,26節)

「石の心をもってしては、人を復活させることはできない」という言葉があります。なかなか含蓄の深い言葉です。私は葬儀のお話の中で時々この言葉を引いて話すことがあります。冷たい石の心ではなく、温かい愛の心によって、死者も死者を弔う者たちも慰められると思うからです。

上記の言葉は「石の心」がどのようなものであるのかという否定的な言い方で、その逆の温かな愛の心の豊かさを暗示しているとすれば、下記の聖書の言葉は文字通り神の愛の確かさを肯定的に歌っています。

「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、高いものも低いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマの信徒への手紙8章38,39節)

この聖書の言葉(パウロの言葉)は何と力強いことでしょうか。

何ものも「わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」とすれば、神の愛に委ねて安心して生き、安心して死ぬ道がわたしたちには与えられていることを意味します。また、なぜわたしたちがあらゆる死の力(病気や死、差別や排除、戦争や破壊・・・)に自分を委ねずにそれらの死の力と闘うかということも、わたしたちの委ねるべき神の愛に信頼し、わたしたちを死の力に引き渡さない方に押し出されてのことなのです。

今年もイースターの日が間近になりました。この時代の死の力に抗う死に打ち勝つ命の力を与えられたいと願います。