なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

新しい時をもたらす方

昨日のこどもと大人の合同礼拝説教の要旨。題「新しい時をもたらす方」マタイによる福音書11章2-6節

エスさまは、バプテスマのヨハネガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスに捕まって牢屋に入れられたと聞くと、人々の前に現れて、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ4:17)と言って、宣べ伝え始めました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」というのは、天の国、つまり神さまの支配する国が来たから、今までとは180度方向転換して、神さまの御心にふさわしく歩みましょうということです。

それはちょうど夜から朝に変わることによって、世界が新しくなるのと同じです。新しい世界、新しい時代がイエスさまとともに私たちのところにやってきたということです。

実際イエスさまによって、病気を癒された人たちやその家族、悪霊を追い出してもらった人たちやその家族、人々から嫌われて人間扱いされず差別されていたのに、かけがえのない一人の人間としてイエスさまに受け入れられた人たち、また強い人たちが自分勝手に振舞い、弱い人たちが犠牲になって苦しんでいる社会に疑問を感じていた人たちには、イエスさまは神の国を本当に実現する救い主に思えたことでしょう。

バプテスマのヨハネは牢屋の中にいました。それこそ権力者であるヘロデ・アンティパスの不正な離婚を非難したためにつかまって牢屋にいれられていたヨハネですが、ヨハネは天の国(神の国)が来ることを待ち望んでいました。そして天の国(神の国)はメシヤ(救い主)という一人の人物を通してやってくると信じていました。ですから、牢屋にいて自分の弟子たちからイエスの噂を聞いたのでしょう。イエスがメシヤ(救い主)かもしれないと思って、弟子たちをイエスのところに送って質問させたのです。

「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(11:3)と。するとイエスは答えて言いました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしに躓かない人は幸いである」(11:4-6)と。

このイエスの言葉は、イザヤ書35章の預言が実現していることを物語っています。
「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。/花を咲かせ/大いに喜んで、声を上げよ。/砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンの輝きに飾られる。/人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。」(35:1-2)と言って、イザヤは次のように続けます。
「弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。/心おののく人々に言え。/「雄雄しくあれ、恐れるな。/見よ、あなたたちの神を。/敵を打ち、悪に報いる神が来られる。/神は来て、あなたたちを救われる。」(35:3-4)。そして「そのとき、見えない人の目は開き/聞こえない人の耳が開く。/そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。/口の利けなかった人が喜び歌う。/・・・・」と(35:5-6)。

今も私たちの周りには、苦しんでいる人、悲しんでいる人、泣き叫んでいる人が沢山います。日本だけではなく、世界中にそのような人たちが沢山います。自分だけ幸せなら、人のことはどうでもいいという人もいます。そういう人が沢山いる社会では、苦しみ悲しむ人たちは、自分たちだけが何故こんなに苦しまなければならないのかと、つらい思いをかかえて、ひそかに生きていかなければなりません。

エスさまの時代のユダヤの国と同じです。ユダヤの国でも目の見えない人、足の不自由な人、重い皮膚病を患っている人、耳の聞こえない人、貧しい人は、そういうつらい思いをかかえて、ひそかに生きていかなければならなかったのでしょう。

ところが、イエスさまは、イザヤの預言のように、そのような人々に神さまの不思議な命を分かち与え、喜びと希望をもたらしました。打ちひしがれていた人たちが、元気になって、自分の足で立って歩きだしたのです。暗い夜の世界から太陽の光がさんさんと輝く世界に人々は導かれて、元気を取り戻し、神さまを讃美して生きていくのです。

このイエスさまの不思議な出来事は、今も苦しむ者、悲しむ者と共に在る私たちの中で起こっているのです。イエスに躓かない人は幸いです。