なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

結婚式のお話

今日はこれから結婚式の司式を、私はしようとしています。結婚式の式辞では、だいたい以下のようなお話をしています。ご参考にしていただければ幸いです。
 
私たちは今、主の御前に集い、結婚の意志を言い表そうとする・・・さんと・・・さんとの約束の証人となろうとしています。私たちは、今に至るまで、主がお二人を導き、新しい家庭を築こうとする決意に至らしめてくださったことを心から信じ、その約束の証人としての勤めを果たしたいと願っています。お二人の喜びを祝し、さらにまたもしこの二人に過ちがある時にも、それに対して寛容な心で臨み、お二人が地上に生きる限りその約束を守って、豊かな家庭を営んでいくことができるように、心から祝福を祈りつつ支え励ましていくことが、私たちの務めです。どうか主が私たちをかえりみ、この務めを果たさせてくださいますように。
 
 さて、私たち人間は、この地上で共同生活をしているわけですが、長い人類の歴史をとおして、お互いに憎しみ合い争い合ってばかりいれば、両者共に傷つき滅ぶことに気づかされてきました。互いに生きるためには、争いや障害を取り除いて、平和に生きる努力の大切さを、誰もが知っているわけであります。そして、そのことが大変困難であることも、誰もが知っているわけであります。人間同士が取り交わす約束が、どれだけ信じ合えるものであるか、という懐疑をもってします現実にも、私たちはしばしば出会うからであります。
 
 けれども、結婚において、二人の男女が交わす約束の重さを考えないでは、結婚そのものが成り立ちません。「言葉をもってなした約束」に対して、どこまでも誠実にお互いが生きることによって、二人の結婚生活は、一人では味わうことができないかけがえのない経験をもたらすのであります。しかし、その共同生活におけるかけがえのない経験は、結婚が約束する可能性でありまして、二人の結びつきが、言葉をもって取り交わした約束への誠実を忘れてしまい、打算と成り行きの関係になってしまえば、却って結婚生活が二人の自由を縛ることにもなり兼ねません。とすれば、約束への誠実、すなわち互いに愛し合う関係というものがどのようにしたら、私たちのうちに生じるのかということであります。聖書は、そのために「愛」の力が必要であると語っているのであります。この愛は、場合によってはエロス的な人間愛の形をとりますが、何よりも自分だけを求めるものではなく、他者のことを自分と同じように考える力であります。先程読みましたところに、
 
 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いたずらに、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」(13:4-7)。
 
 と記されています。このすべてを耐えるとは、すべてを信じ、すべてのことに面と向かう力という意味の言葉です。 愛は、お互いにより豊かに生かす力ですが、その愛の力は、関係に自分をかける時に与えられるのであって、人間の能力ではありません。神がお二人を一つに結び付けておられることを信じ、お二人が共に生きていこうと心から願うならば、必ずこの愛の力がお二人に与えられるでしょう。
 
 その意味で、ボンヘッファーという人は、結婚において、二人に、お互いを愛する好意がなければ成り立たないが、好意だけでも成り立たない。二人を結びつける神の定めへの信頼がなければ結婚生活は成り立たない、とい主旨のことを書いています。
 
 そこで、今約束を言い表そうとするお二人に申し上げます。
 
 どうか、結婚の約束を通じて、主が備えてくださった豊かな愛をもって、互いに力を合わせ、神と、父母をはじめとする多くの友人たちの期待に応えてください。ここでなされる約束が、あなたがた双方に対するものであることは言うまでもありませんが、それはまた、神の深いみ旨とあなたがたをめぐる多くの人びとに対する責任をも意味します。ですから、主の御前に謙虚な思いをもってその約束を言い表し、さらに自由と喜びをもってその約束をまっとうするように努めてください。願わくは、主があなたがたを祝し、このことをなさせてくださいますように。