なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(194)

          船越通信癸隠坑粥 。横娃隠鞠1月18日    

・11日の日曜日は6人で礼拝を守りました。教会の経済を考えて、電話回線をNTTからKDDIに変更しまし

たが、それに従って教会の受信の設定を変えなければなりません。この日の礼拝後には、その設定の変更

をしましたが、パソコンのインターネットがどうしても接続できず、後日Tさんのお連れ合いがその設定を

してくださいました。まだ最終的にKDDIへの変更が全て完了はしていな0いようですが、Tさんご夫妻に

は本当にたくさんの時間をこのためにとっていただき心から感謝いたします。ありがとうございました。

・12日(月・祝)には、13:30から新丸子教会にて、「日本軍『慰安婦』と朝日新聞バッシング~読売新

聞から読み解く~」というテーマで、「女たちの戦争と平和資料館〈wam〉」事務局長の渡辺美奈さんの講

演があり、私も参加しました。この集会は神奈川教区の五つの委員会(性差別問題特別委員会、基地・自

衛隊問題小委員会、ヤクスニ・天皇制問題小委員会、国家秘密法反対特別委員会、多民族共生をめざす小

委員会)の共催で開かれました。この集会の案内の呼びかけ文には以下のように記されています。

・<2014年8月、朝日新聞がこれまでの「慰安婦」報道を検証した記事を掲載すると、テレビや新聞など大

手マスコミは、一部地方紙を除いて徹底的に朝日新聞批判を展開しました。朝日新聞が撤回あるいは説明

した内容は「慰安婦」にされた女性たちの被害実態とはあまり関係がない、加害証言の信憑性や用語の問

題などすでに良く知られていた事実でした。このような記事に対して「朝日新聞がなぜバッシングされて

いるのか、よくわからない」というのは、至極まっとうな反応と言えるでしょう。/とはいえ、この朝日

報道をきっかけに「強制連行はなかった」「性奴隷ではない」という主張が声高に叫ばれ、読売新聞は

その英字紙で「性奴隷sexual slavery」という言葉を使ってきたのは不適切だったとして謝罪までしま

した。wamでは、11月から緊急特別展「徹底検証 読売『慰安婦』報道」展を開催していますが、読売は

慰安婦」をどう報じ、どう変節してきたのかを題材に、歴史を消そうとする側の思惑を読み解いていき

たいと思います。>

・渡辺さんの講演は、プロジェクターで読売新聞記事切り抜きや画像を映して、分かり易い講演でした。

私は高岩仁監督の「教えられなかった戦争・中国編」を観た時、日本兵の中国人女性の虐殺の場面で、一

緒に観ていた一人の女性が(日本人ではなかった、韓国人か中国人ではなかったか)悲鳴のような叫びを

上げたのを忘れられません。かつての戦争によって「慰安婦」問題を初め、どれだけ女性の存在と命を踏

みにじってきたか、その事実は決して忘れられてはならないと思います。

・15日(木)は、鶴巻の農家で白菜とねぎを、弘法の里湯売店で春菊を手に入れ、午後雨が大分激しく

降っていましたが、船越に行く前に寿地区センターにその野菜類を置いてきました。16日(金)の寿地

区活動委員会の後、炊き出しなどで一緒に活動している寿地区の方々と一緒に鍋を囲んで新年会を行うこ

とになっていて、そのための野菜の一部の調達を私が引き受けていたからです。16日(金)は18:00か

ら一時間ほど委員会を行い、その後上記の新年会をなか伝道所で行いました。ここ数年委員の一人である

紅葉坂教会のMさんが、鍋の材料の魚類は、横浜の中で横浜橋商店街などとわずかに残っている昔ながら

の商店街の一つである松原商店街から調達してくれます。今年もタラ、サケ、カキ、白子、そしてハタ

ハタがそろいました。お酒類は地域の方々が持って来て下さり、約2時間近く鍋の新年会が盛り上がりま

した。最初に寿地区活動委員会の委員長として私が一言挨拶をし、最年長のHさんが祈り、会が始まりま

した。みんなのお腹が膨らんだころ、Mさんから一人一人の自己紹介をということで、出身地、得意不得

意などそれぞれが語りました。なごやかなひと時を楽しみ、午後9時過ぎに会を閉じ、まだ残る人は続け

て、私はHさんと一緒に帰りました。

・17日(土)午前中ラジオをつけていましたら、阪神・淡路大震災からちょうど20年目になり、関西で

はいろいろな記念行事が行われていると報道していました。1995年1月17日が震災の起こった日です。私は

まだ名古屋の御器所教会にいた時で、高速道路が崩壊し、神戸の街のあちらこちらから炎が上がっているの

をテレビで観て、大変なことが起きたと思ったことを、今でも鮮明に思い起します。その神戸の街のテレビ

の画面の衝撃と、2011年3月11日の東日本大震災の時の大津波が街に押し寄せるテレビの画面の衝撃は、そ

の質は違いますが、共に大地震の恐ろしさを私たちの脳裏に焼け付けたと思います。この20年間で、神戸の

街並みは、大地震に見舞われた痕跡をほとんど残していないほど、復興しているように見受けられます。昨

年兵庫教区総会が開かれた神戸栄光教会に行きましたが、1995年4月に私が紅葉坂教会に転任して、数年後

の夏に教会の献金送り先を調べに神戸に行ったときには、神戸栄光教会は仮設のプレハブドームの教会でし

た。レンガ造りの古い会堂は地震によって塔部分が崩壊して、新しく建て替えなければならず、資金が集ま

るまで、一時的にドームで礼拝を行っていたのです。それが昨年行ったときには、見違えるような立派な教

会堂に変わっていました。外観としての街並みは復興しても、震災に遭遇した人々、また地震で亡くなった

方々、その遺族の方々一人一人の震災後の歩みはどうなのでしょうか。今もその傷を抱えながら日々を紡い

でいる方も多いのではないかと推察します。阪神・淡路大震災から20年の節目を迎えて。