なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(4)

     「取り替え」エレミヤ書2:10-13、2015年4月12日(日)礼拝説教

・棕櫚の主日イースターと2回の日曜日は、エレミヤ書ではなく、聖書日課からテキストを選んで説教を

しました。今日はエレミヤ書に戻り、エレミヤ書2章10節から13節から私たちに向けられている語り掛けを

聞きたいと思います。

・以前にも紹介したことがありますが、東北大震災を現地で経験した牧師たちが、地震から五カ月たった時

に、仙台に集まって座談会を開いています。その記録が「危機に聴くみ言葉~三月一一日の後で教会は何を

聴き、何を語るか~」という表題がつけられた『説教黙想アレテイア』という雑誌に載っています。その中

日本基督教団釜石新生教会の牧師の柳谷雄介さんは、このようなことを言っています。

・<…僕にとって見れば、あの日が天地創造だというくらいに思っていて・・・・。その前はすごく混乱して

いて、けれどもあの日、多くの方が言っていますけど、星がきれいでしたよ。何もなくなってみて星がきれい

だったというのは、すごく象徴的ですが、「あの日、光があった」と思うんですよ。それはでかでかとまぶし

い光ではないけど、やけに美しくて。/ 思い起こして見みると、あの日なんにもなくなってみんながどうし

たかというと、自分のことだけ考えたのではなくて、津波の中にいる人を助けたり、食べ物のある人はない人

に配ったり、お年寄りや子どもを優先して。それも光だったと思うんですよね。あの日、神さまからOKを出さ

れたという気持ちがあるんですね。身内をなくした方がそれでOKかと言えば、今の僕にはわからない面が多い

けれど、うまく言えないのですが・・・・。/ あの日、あれでOKだったんだ、というところに立って、それ

が本当にずしんと体の中で入ってきたら大きいだろうと思うんです。何もなくても何もできなくてもOKなんだ。

弟子たちが逃げてしまったように、僕も何もできなかったけど、でも本当に偶然が偶然を呼んで人を助けちゃ

ったとか、偶然につながりができちゃったとか、自分の力じゃなくて生かされている。・・・・・これがもっ

ともっと強くなっていくといいと思うんですけど。なんかこう、自分がそのままでいていいということが、確

信に一歩近づいたんじゃないかと思っています〉。

・この柳谷雄介さんの言葉には、大震災によって私たちが本来立つべきところに戻されたのではないかという

思いが表れています。「あの日、あれでOKだったんだ、というところに立って、それが本当にずしんと体の中

で入ってきたら大きいだろうと思うんです。何もなくても何もできなくてもOKなんだ。弟子たちが逃げてしま

ったように、僕も何もできなかったけど、でも本当に偶然が偶然を呼んで人を助けちゃったとか、偶然につな

がりができちゃったとか、自分の力じゃなくて生かされている。・・・・・これがもっともっと強くなってい

くといいと思うんですけど。なんかこう、自分がそのままでいていいということが、確信に一歩近づいたん

じゃないかと思っています」というところに、それが出ているように思います。あの大震災を、神による人間

の新たなる天地創造として感じて、この世に人間が造られて命あるものとして生き始めた原初の時代に引き戻

どされて、そこからやり直しができたら、という気持ちではないかと思います。「あの日、あれでOKだったん

だ、というところに立って、それが本当にずしんと体に入ってきたら大きいだろうと思うんです」とは、その

ような思いではないでしょうか。

・ということは、大震災前のみんなの生活は、何か的外れであったのではないか。本来の人間の生き方からす

れば、おかしかったのではないかという思いでしょう。大津波によって何もなくなってしまった釜石という場

所で、柳谷雄介さんは新たな天地創造に出会って、人間の本来の在り方をそこで再発見したということではな

いでしょうか。このことは、大震災に出会って、すべてのものが失われてしまい、ある意味で新しい天地創造

を経験して、それが私たち人間本来の在り方を取り戻す契機になっているということを意味すると思います。

・では、地震と大津波のような自然災害によるのではなく、この不条理に満ちた現実社会の中で私たちが立ち

戻るべきところは、どこなのでしょうか。日本人の歴史の中に、そのような経験があるのでしょうか。人権思

想は日本では近代に入ってから欧米から輸入されたものであります。民俗学者赤坂憲雄は、弥生の稲作以前

縄文時代が残る東北地方の古い文化にそれを探そうとしているように思われます。米ではなく、稗やソバな

どの雑穀と狩りによって生活していた山人たちの生活に注目しています。日本の社会では、そこまでいかない

と、天皇制にからめとられる以前の人間の生活にたどり着けないということなのでしょうか。

・私は日本の歴史についてはよくは分かりませんが、少なくとも、旧約の預言者のような人物は、王権が生ま

れてからの日本の歴史の中では出てこなかったのではないでしょうか。天皇制という人間が造り出した権威と

その権力構造を批判できる根拠を誰ももっていなかったからです。

預言者エレミヤは、神ヤーウエから直接言葉を聞いて、イスラエルとユダの民に主の言葉(神の言葉)を語

っているのです。エレミヤには、王であろうと誰であろうと、一人の人間を縛る権力者以上の神ヤーウエの存

在が全ての人を支配しているという信仰がありました。しかも既にアッシリヤに滅ぼされた北王国イスラエル

の民も、まだ滅ぼされてはいないが、アッシリヤの圧政に耐えている南王国ユダの民も、人間を超えた生ける

神ヤーウエと直接契約を結んでいる神の民であるというのです。天地を創造し、人間を男と女として創造した

神が、エジプトで奴隷であった自分たちの先祖のイスラエルの民を、モーセを指導者に立てて、その奴隷状態

から解放てくださったのだ。その神との間にシナイで契約を結んで、十戒を与えられて、何よりも愛と正義を

重んじる神の民としてこの歴史を生き抜くという約束をしたのだ。このシナイ契約は、王国時代になってもイ

スラエルの民の心の中に、その深い所で脈々と生きていたのでしょう。イスラエル12部族の一つであるベニヤ

ミンの一祭司の出てあるエレミヤが、「主(神)はこう言われる」と語った預言が受け止められる土壌がイス

ラエルの民の中にはあったのです。

・今日のエレミヤ書の所で、エレミヤはこのように語っています。「一体、どこの国が、神々を取り替えたこ

とがあろうか」と。古代の部族国家はどの国も宗教国家でもありましたから、どの国にもその国の神がいて、

その神によって統一が維持されていました。

「キティムの島々に渡って、尋ね/ケダルに人々を送って、良く調べさせ/果たして、こんなことがあったの

かどうか確かめよ」とは、「地中海の島々に渡っても、アラビア砂漠の部族を訪ねても、自分の神を取り替え

たものはない」と言っているのであります。

・神を取り替えるとは、イスラエルの民にとりましては、彼ら彼女らを創造し、その歴史を導いてきてくださ

った神ヤーウエとは別の神を自分たちの民族の神にするということです。実際当時のイスラエルの民は、まだ

国は滅ぼされてはいませんでした南王国ユダの人々を含めて、異教の神々バアルの祭壇を築いて礼拝していた

ようです。ですから、後にヨシヤ王が宗教改革を行いますが、そのはじめにヨシヤが行ったことは、各地の都

市に築かれていた、アシラ像、刻んだ像、鋳た像を打ち毀し、バールの祭壇を破壊せよという、各地の都市の

長老たちへの布告でした。地方聖所の浄化です。このことからも、エレミヤが、「一体、どこの国が、神々を

取り替えたことがあろうか」と言わざるを得なかった祭儀の異教化が神の民イスラエルの人々の中に広がって

いたということです。

・エレミヤは、イスラエルの民がヤーウエに代わって取り替えた神々は、神ならぬものだと言うのです。「一

体、どこの国が、神々を取り替えたことがあろうか」に続けて、エレミヤは「しかも、神でないものと」と言

っています。エレミヤによれば、イスラエルの民は本来彼ら彼女らが礼拝すべき神ヤーウエに代えて「神でな

いもの」を礼拝していると言うのです。そのことをまた、エレミヤはこう言っています。「ところが、わが民

はおのが栄光を/助けにならぬものと取り替えた」(11節b)と。

・エレミヤはイスラエルの民にとって神ヤーウエを「おのが栄光」と言っています。「栄光」とは原語のヒブ

ル語では「カーボード」で、もともとは「重さ」を意味する言葉です。つまり「重要さ、価値あるもの」です。

神ヤーウエはイスラエルの民にとっては、重要で価値ある存在であり、かけがえのない方なのであります。命

そのものと言っていいでもよいしょう。ところが、イスラエルの民は自分たちにとっての「わが栄光」である

神ヤーウエを捨てて、「助けにならないものと取り替えた」と言うのです。

・エレミヤにとって、このことがイスラエルの民にとっての決定的な過ちであり、イスラエルの民の不孝の源

でありました。エレミヤは、そのようなイスラエルの民の現実を見て、「天よ、驚け、このことを/大いに、

震えおののけ、と主は言われる」(12節)と言っています。驚天動地と言われますが、驚天動地は世の中を大

いに驚かすことで、そのような事件の形容として使われる言葉です。「驚天動地の大事件」というように。そ

してエレミヤはこのように言っているのです。「まことに、わが民は二つの悪を行った。/生ける水の源であ

るわたしを捨てて/無用の水溜めを掘った。/水をためることのできない/こわれた水溜めを。」(13節)と。

・エレミヤがこの預言をした時に、北イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ、南ユダは滅ぼされはしませんでし

たが、アッシリヤの圧迫を受けていた時です。当時の覇権国家アッシリヤをこそ責めるべきではなかったかと

思う人もいるかも知れません。けれども、エレミヤは、自らも属しているイスラエルの民のあり様を問題にし

たのです。自らの中に生ける命の源が据えられているかどうか。もちろん、エレミヤもイスラエルの民を含め

て自分自身の中に命の源があるとは思っていなかったでしょう。ただエレミヤは関係性の中で人は生きて行く

ものであり、その人の心が空しいものに傾いてしまったならば、それこそ悲惨そのものであると考えたので

しょう。逆にもし命の源である神ヤーウエとの信頼関係をイスラエルの民が維持しているとすれば、アッシ

リヤによる圧迫も、後のバビロニアによる圧迫も何ほどのことでもないという確信をもっていたのではない

でしょうか。

・私たちは、「おのが栄光」つまり、自分の最も重要なものを、助けにならないものに取り替えてはいない

か。私たちにとって「おのが栄光」は何か。主イエスの生き様、死に様(十字架)、復活の出来事から、

「生ける水の源」から命の水をいただきながら、最も大切なものを助けにならないものと取り替えることな

く、この厳しい日々の歩みを一歩一歩歩んでいきたいと切に願う次第です。