なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(10)

     「立ち帰れ」エレミヤ3:6-18、2015年6月7日(日)船越教会礼拝説教

・今、国会審議が行われています「他国を武力で守る集団自衛権の行使容認を柱とする安全保障関連法案」、

いわゆる「戦争法案」による戦争のできる国造りに、この日本が進んでいくのか、それともそれを止めるこ

とができるのかという、大変重要な選択がなされようとしています。6月4日に開かれた衆議院憲法審査会

では、与党である自民党公明党の推薦の学者も含めて3人の憲法学者が3人とも、この法案が違憲であると

の考えを示しました。ということは、3人の憲法学者によれば、いわゆる「戦争法案」は日本国憲法に背く法

案であるということになります。日本国憲法は、日本の国がそれに基づいて国家形成をしていく基本的な法、

定めであります。その定めである日本国憲法に従って国造りをしていくことは、政府も国会も裁判所も共に

守らなければならない義務であり、責任であります。

・ところが、その解釈によって憲法条文で定められたことを超えて、実際には国造りが行われています。憲

法第9条には日本の国は交戦権を放棄し、軍隊を所持しないことが明記されています。

憲法第9条)

・日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は

武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

・前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

・ところが、日本の国は自衛隊を所持しています。これは解釈による実質的な改憲と言っても過言ではありませ

ん。

・今回の「戦争法案」もアメリカの世界戦略、日米軍事同盟の強化の流れの中で、日本の自衛隊がより積極的に

米軍と行動を共にできるようにしようとする目論見と思われます。戦後70年の首相談話として8月に安倍首相の

首相談話が予定されていますが、その中で、日本の侵略戦争を認め、謝罪した「河野談話」「村山談話」を踏襲

するかどうかが問われていますが、安倍首相は、かつての日本の戦争を侵略戦争として謝罪する考えはないよう

で、再び強い国家をめざしているように思われます。

衆議院憲法審査会における3人の憲法学者のいわゆる「戦争法案」は「違憲」であるという判断は、安倍政

権が違憲へとさらに一歩すすめて、この日本を戦争のできる国にしようとすることに対する警鐘と言えるでしょ

う。すなわち、憲法を踏み越えて違憲による国造りに立ち入ろうとする安倍政権に対して、この3人の学者は憲

法に立ち戻るようにというメッセージを発していると言えるのではないでしょうか。

・この憲法学者のメッセージは、ある意味で、預言者エレミヤの預言に通じるものがあるように思えます。エレ

ミヤは、神ヤハウエの下から離れて行ったイスラエル民に対して、神は「わたしに立ち帰れ」と言っているとい

うのです。エレミヤの場合、彼の前にある現実は、既に神ヤハウエとの契約に基づくイスラエルの民が南北に分

裂して、一方の北イスラエルアッシリアに滅ぼされた状態で、北イスラエルの人々は異教の神々を礼拝し、神

ヤハウエに背いてしまっていたのです。

・6節に、<ヨシヤの時代に主はわたしに言われた。あなたは背信の女イスラエルのしたことを見たか>とあり

ます。ここで<背信の女イスラエル>と言われているのが、北イスラエルの民です。<彼女は高い山の上、茂る

木の下のどこにでも行って淫行にふけった>(6節)と言われているのも、今まで既に語っていますが、これは、

イスラエルアッシリアやエジプトとの政治的取り引きの結果、アッシリアに滅ぼされ、神ヤハウエとの契

約の民としてのイスラエル固有のあり方、神の前で各人が人間として尊重されるということを失って、異国の

あり方、富と権力による支配に飲み込まれてしまったことを意味します。

・しかし、エレミヤは<主はわたしに言われた>と言って、7節で<彼女(北イスラエル)がこのようなことを

したあとにもなお、わたしは言った。「わたしに立ち帰れ」と>語っています。これは、神ヤハウエは北イスラ

エルがヤハウエに背き、異国の神に心動かされていってしまった後でも、<わたしに立ち帰れ>と言われる方

だというのです。しかし、北イスラエルはそれでも神ヤハウエに立ち帰らなかった(6節)とうのです。<しか

し、彼女は立ち帰られなかった>と。

・これは北イスラエルについて語られたものです。7節後半には<その姉妹である裏切りの女ユダはそれを見

た>と記されていて、北イスラエルから南ユダに矛先が向けられていきます。

・<背信の女イスラエルが姦淫したのを見て、わたしは彼女を離別し、離縁状を渡した。しかし、裏切りの女

であるその姉妹ユダは恐れるどころか、その淫行を続けた。彼女は軽薄にも淫行を繰り返して地を汚し、また

石や木と姦淫している。>(8-11節)。

・ここには、北王国イスラエルアッシリアに滅ぼされたのは、神ヤハウエとの契約を破って、権力と富に基

異国のあり方に心惹かれて、神に背いて行ったイスラエルの民を神ご自身が離別し、離縁状を渡したと言われ

ています。エレミヤは、北イスラエルアッシリアに滅ぼされたのは、神の審きなのだと言うのです。その北

イスラエルの現実を目の前にしながら、同じように神ヤハウエとの契約を破って異国のあり方を求めて、「軽

薄にも淫行を繰り返し地を汚し、また石や木と姦淫している」南王国ユダは、北イスラエルよりもさらにひど

い状態であるとエレミヤは言っているのです。<そればかりでなく、その姉妹である裏切り女ユダは真心から

わたしに立ち帰ろうとせず、偽っているだけだと、と主はわたしに言われる。裏切りの女ユダに比べれば、背

信の女イスラエルは正しかった>(10節)と。

・「背信の女イスラエル」に対して「裏切り女ユダ」という言い方にも、北イスラエルに勝る南王国ユダの不

信による惨憺たる状況が物語られているのではないかと思われます。エレミヤの預言は、ここでは南王国ユダ

に向けられていますが、12節以下ではまた北イスラエルに向けられていきます。この12節、13節の預言には、

自らのもとを離れ去って他の神々に仕えている背信イスラエルを離別し、離縁状を渡したという神ヤハウエ

が(8節)、そのイスラエルの民に、それでもなお「わたしに立ち帰れ」と呼びかけていると、エレミヤは預言

しているのです。<わたしはお前に怒りの顔を向けない/わたしは慈しみ深く/とこしえに怒り続ける者では

ないと、主は言われる>(12節)と。その後に、「ただお前の犯した罪を認めよ」(13節)と付け加えられて

いるのです。ここに神の真実が物語られているのではないでしょうか。

・14節以下では、「背信の子らよ、立ち帰れ、と主は言われる」と再び「立ち帰れ」が繰り返されて、そして

「わたしこそあなたたちの主である」と語られて、その後に、主による将来の御業が語られます。<・・・そ

の時、エルサレムは主の王座と呼ばれ、諸国の民は皆、そこに向かい、主の御名のもとにエルサレムに集まる。

彼らは再び、かたくなで悪い心に従って歩むことをしない。その日、ユダの家はイスラエルの家と合流し、わ

たしがあなたたちの先祖の所有とした国へ、北の国なら共に帰って来る>(17,18節)と。神の慈しみの現れ

がこのように語られているのです。

・私はこのところを読みながら、有名なヨハネによる福音書3章16節以下を想い起しました。<神は、その独

り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命(永遠に意味

ある生)を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救わ

れるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じない

からである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きに

なっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方へこないからであ

る。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされていることが、明らかになるた

めに>(3:16-21)。

・聖書によれば、イスラエルの民は神に祝福された民として、すべての民の祝福の基となるためにパレスチナ

に土地を与えられたと記されています。残念ながら今のイスラエル国家は、聖書のイスラエルの民に与えられ

た神の祝福を引き継いでいるとは思えません。今のイスラエル国家は、パレスチナに対する軍事力による力の

支配を貫いています。イスラエルの人々の中にも、イスラエル国家とは違って、神の祝福の基としてイスラエ

ルの民が進むべき道をしっかりと見定めている人たちもいることでしょう。

憲法第9条は、私たちが犯した侵略戦争という過ちを認めて、再び同じ過ちを繰り返してはならないという決

意を含めて、私たちが選び取った大切な約束です。憲法第9条は、またどこの国、どの民族に属していても、戦

争によらない平和な世界をめざすすべての人が拠り所になる真理です。この真理に覆いをかけてはなりません。

・エレミヤにとって、この真理とは、イスラエルの民が神ヤハウエと結んだ契約にもとづいて生きることでし

た。覇権主義的なアッシリアやエジプトとの政治的な取り引きによって生き延びる道ではなく、神ヤハウエと

の契約にもとづいて、イスラエルの民が何よりも神を愛し、その神のもとに人間としての尊厳を与えられてい

る一人一人が互に尊重し合って、支え合い、仕え合って共に生きることです。そのイスラエル固有の生き方に

徹すれば、覇権主義的な大国の狭間でもイスラエルは生きることができるし、もしそのイスラエル固有の生き

方を貫くことによって、イスラエルの国が亡び、イスラエルの民が捕囚の状態になったとしても、その生き方

によって和解の使者となることはできるのだという確信を、エレミヤはもっていたのではないでしょうか。

イスラエルの民にエレミヤを通して語られた、「わたしに立ち帰れ」という神ヤハウエの呼びかけを、「戦

争法案」が成立するか、否決されるかという日本の国の進路の分かれ道にある私たちに語られている神と主イ

エスの呼びかけとして聞きたいと思います。私たちは主イエスによる和解と平和の道を、どんな状況のもとに

あっても貫いて生きて行きたいと願います。主が支えてくださいますように。