「陶工の家で」エレミヤ書18:1-12、 2016年8月21日(日)船越教会礼拝説教
・私は陶器を見るのが好きです。日本の陶器では古伊万里が好きです。中国、朝鮮の陶器では朝鮮の古い陶器
が好きです。2年くらい前になりますが、箱根の小涌園に連れ合いと行ったことがあります。その時小涌園の向
かいに岡田美術館があるのを偶然知って、入りました。最初岡田美術館とありましたので、私はてっきり、世
界救世教や自然農法の創立者で、箱根強羅にある箱根美術館や熱海にあるMOA美術館作った岡田茂吉に関係が
あるのかと思いました。熱海のMOA美術館にも陶器の素晴らしい作品があります。ところが、後で知ったので
すが、小涌園の岡田美術館は岡田茂吉とは全く関係がなく、パチンコで儲けている岡田和生という人が作った
私設美術館です。批判する人の中には、私設美術館としてその人が集める作品への傾向が感じられず、お金に
飽かせて集めている感じがして、入館料も2,800円と高く、セキュリティーも厳しいので、2度と行く気にはな
れないという人もいます。そういうところは確かにありますが、私は3回も行っています。
・ちょっと横道にそれてしまいましたが、陶器の話を持ち出したのは、今日のエレミヤ書の箇所に、エレミヤ
が神によって「陶工の家に」行けと言われて、「陶工の家」に行ったということが書かれているからです。18
章1節、2節では、エレミヤは神によって「陶工の家に下って行け」と言われたので、「わたしは陶工の家に下
って行った」と言われています。「陶工の家」はエルサレムの南にあるベン・ヒンノムの谷にあったようです
(19:2)。ですから、エルサレム神殿のあるところからすると、陶工の家には下って行くことになったので
しょう。
・エレミヤが神の命令によって陶工の家に下って行ったところ、<彼(陶工)はろくろを使って仕事をして
いた>(18:3)と言われています。<「ろくろ」は原語では「二つの石」で、二つの石板が木の軸でく
っつけられて居り、下の石板を脚で廻し、上の石板は右手で陶器の外側を形造り、左手で上からおさえて軸
の先端にはめこみ陶器の内側をえぐったらしい。パレスチナでは久しい間、この陶器製造が盛んで、聖書の
中にもこれからとられた比喩が多い」(関根正雄)と言われています。
・私たちは創世記の人間創造物語の中で、<主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、そ
の鼻に命の息を吹き入れられた>(2:7)と語られているのを知っています。この記述の背景にも、陶工の
仕事が想像されます。
・エレミヤ書18章4節には、<陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを
作り直すのであった>と記されています。陶工はろくろの上の石板の上で、湿った柔らかい粘土を手で形づ
くりました。もし、形づくった器が失敗に終わった場合、陶工はそれをもう一度粘土のかたまりに戻し、そ
の作品が「気に入る」まで、はじめから新たに作り直すのです。それが当時の陶工の作業過程です。
・神の命令によって、エレミヤがベン・ヒンノムの谷にある陶工の家に行く前のエレミヤの状況は、17章の14
節から18節までのエレミヤの祈りから読み取ることができます。エレミヤはユダの人々とエルサレムの住民に
対して「北からの災い」が来ることを預言しました。しかし、実際にはエレミヤが「北からの災い」の預言を
語っても、なかなかその北からの災いはやってきませんでした。そこで敵対者たちはエレミヤの預言が遅延し
ていることに対して、エレミヤに疑義と嘲笑を浴びせかけました。7章15節に<御覧ください。彼らはわたし
に言います。/「主の言葉はどこへ行ってしまったのか。/それを実現させるがよい」と>言われています。
これはエレミヤの敵対者たちが、<嘲笑をこめた高慢な態度をもって、彼のことば尻をとらえて神をなじろ
うとしている>(ワイザー)のです。そういう状況に直面して、エレミヤも神と神の言葉への信頼を失いかけて
いたのです。
・そのエレミヤが、神に命じられて、陶工の家に行って、陶工が、何度も形づくった器を壊しながら、気に入
る器ができるまで、その作業に魂を注いでいる姿を、じっと見つめたのです。その時エレミヤは神からの啓
示を受けたのでしょうか。5節。6節にはこのように記されています。<そのとき主の言葉がわたしに臨んだ。
「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言
われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある>。
・この陶工と粘土のたとえを通して、エレミヤが気づかされたことが二つあります。一つは、<イスラエルの
家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか>という言葉(神の自由)
は、<エレミヤにとって、神は変わることのない絶対の主として、事態を御自分の手中に保持される、とい
うことを意味する。同時にこの問いかけは、民に対しては、何人も神を説得したり、一定の方向に固定する
ことは出来ないのだ、という訓戒を含んでいる。神の行為の究極的な動機や規準、また神の介入の時(カイ
ロス)の定めは、神にのみ委ねられた事柄であって、どんな人間の精神といえども、侵入して横取りするこ
とが出来ない神の秘儀であり続けるのだ。預言者の嘆きも、神のことばに対する民の批判も、矯正されて再
び提示されたこの展望を前にして、沈黙を余儀なくされる。この展望の中でこそ、神と人とは常に正しい関
係に立つのである>(ワイザー)。
・イザヤ書29章16節にこのような言葉があります。<お前たちはなんとゆがんでいることか。/陶工が粘
土を同じに見なされうるのか。/造られた者が、造った者に言いうるのか/「彼がわたしを造ったのではない」
と。/陶器が、陶工に言いうるのか/「彼には分別がない」と>。ここに記されています、わたしたち人間が
そこに「侵入して横取りすることの出来ない神の秘儀」としての神の自由への信頼。私たちはその信頼を、神
の自由に対して人間もその与えられた自由をもって応答するのではなく、むしろ人間はその与えられた自由の
乱用によって、神の自由をないがしろにして、傲慢に神に逆らって生きるのです。エレミヤを誹謗中傷するイ
スラエルの民のように。現在でも権力と富の奴隷になって、あたかも己が神のごとく振る舞う人間の高慢に、
わたしたちは辟易としているのではないでしょうか。自ら陶工である神に造られた作品であることに誇りを感
じている人がどれだけいるでしょうか。
・私は今回尿が出なくなって病院にかかりましたが、その経験によって、改めて人間の体が精密な機械のよう
につくられえていることを実感させられました。かつて私が神学生の時代に伊藤之雄という方がしていた山谷
の集会に参加したときに、伊藤さんが「空の鳥、野の花を見よ」という「思い煩うな」というイエスの山上の
説教の一節をテキストに、山谷の労働者にしていたお話を思い起こしました。伊藤さんは野草の生命活動の精
密さを最初に語り、それとは比べものにならないくらいに複雑な人間の体の生命活動をこんこんと語って、創
造者なる神の偉大さを宣べ伝えていました。今回病気になって、伊藤さんのお話を思い出しながら、本当にそ
うだなあと、改めて思わされました。
・陶工と粘土のたとえを通して、エレミヤが気づかされた、もう一つのことは、<神の支配の絶対的自由とは、
人間が術なく晒される神の気儘な恣意を意味するのではない。それは、むしろ、神によって据えられた(救済
の)秩序の中で示されるものなのである。この秩序の中で、神は自らを人間と結びつけたのであった。秩序と
はいっても、それは不変の摂理における固定的、機械的法則という意味ではない。そうではなく、活きた、人
格的な相互関係という形をとる秩序である。そしてそこでは人間の運命は、神に対して責任をもつ人間自身の
自由に委ねられているのだ。これこそ、ヤハウエとイスラエルの間に結ばれた契約関係からみた神理解であり
、その神理解がこの箇所(エレミヤ18:7-10)においては、更に一般的に、(イスラエルのみならず)諸民族
世界に対するヤハウエの関わりへと、拡大されている。召命の物語(1:10)における神のことばと結びつけな
がら、神の恩恵と審判、救済と災厄との並存が、このような観点のおもに、解説され、また深化されているの
である>(ワイザー)。
・11節でこのように言われています。<今、ユダの人々とエルサレムの住民に言うがよい。「主はこう言われ
る。見よ、わたしはお前たちに災いを備え、災いを計画している。お前たちは皆、悪の道から立ち帰り、お前
たちのみちと行いを正せ」。>
・神の絶対的な自由と、その神に対して責任をもつ人間自身の自由が、真正面から向かい合うとき、神の作品
としての人間本来の輝きが現れるに違いありません。パスカルは「人間は野獣にも天使にもなり得る」と言っ
ていますが、神の絶対的な自由に人間が責任的に自由をもって応答するとき、天使と共に神の賛美するの
ではないでしょうか。神は裁きかつ赦すことによって、自由をもって神に応答する私たちであることを、忍耐
強く待ち望んでいるのではないでしょうか。
・<・・・もし、断罪したその民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いをくだそうとしてことを思い
とどます>(8節)と言われています。また、<わたしの目に悪とされることを行い、わたしの声に聞き従わな
いなら、彼らに幸いを与えようとしたことを思い直す>(10節)と言われています。これらの言葉は、神が神
の自由をもって私たち人間と関わり、私たちも、私たちの自由をもって、神に責任的に応答する人格的な関係
を、神が何にもまして求めていることを示していると言えるでしょう。
・私たちは、日常の中で私ち人間が作り出す現実に目を奪われることなく、隠れた形ではありますが、自由な
る神と自由を与えらえた私たちとが織り成す神と私たちとの共鳴関係に自覚的でありたいと願う次第です。