「苦しみと支え」エレミヤ書15章10-21節 2016年6月19日(日)船越教会礼拝説教
・まず初めにお詫びをしなければなりません。先週のガラテヤの信徒への手紙3章15節から18節までをテ
キストとした説教で、私は『戒規か対話か』に記されています渡辺英俊さんの「迫害者サウロ症候群」と
いう文章を紹介しましたが、後でわかったのですが、同じ引用を3月のガラテヤの信徒への手紙をテキス
トにした説教でもしていました。同じ内容のことを3月と6月の説教の中で触れてしまいました。申し訳あ
りませんでした。こういうことを繰り返すようになりましたら、牧師を隠退しなければなりませんので、
その折には遠慮なく、皆さんの方から私にそろそろ潮時であると言っていただきたいと思います。どうぞ
よろしくお願いいたします。
・さて、今日はエレミヤ書の15章10節から21節のテキストから、御言葉を与えられたいと思います。この
箇所は、エレミヤ書の中に五つあります「エレミヤの告白」の中の2番目のものです(➀11:18-12:6、⓶
15:10-21、17:14-18、18:18-23、20:7-18)。ここには、エレミヤという預言者が、一人の人間と
して預言者であるが故に、苦悩を抱え、その苦悩をどのようにして乗り越えていったのかが、よく描かれ
ているように思います。
・ エレミヤは神の召命を受けて、預言者に立てられました。その最初の召命の際に、エレミヤは「
自分は若者にすぎない」と言って、はじめは固辞しました。しかし、神は「若者にすぎないと言ってはな
らない」とエレミヤに語り、<「・・・わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わ
たしが命じることをすべて語れ。/彼らを恐れるな。/わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」>と
言われました。そしてエレミヤ書1章9節、10節によりますと、神は自らエレミヤの口に言葉を授け、エレ
ミヤを万国の預言者に立てます。<主は手を伸ばして、わたしの口に触れ/主はわたしに言われた。/「
見よ、わたしはあなたの口に/わたしの言葉を授ける。/見よ、今日、あなたに/諸国民、諸王国に対す
る権威をゆだねる。/抜き、壊し、滅ぼし、破壊し/あるいは建て、植えるために。」>(1:9,10)。
・エレミヤは、正に、神の言葉を口に授けられた者として、エルサレムとユダの国の人々に神の言葉を語
りました。「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し」と言われていますように、エレミヤの口に授けられた神の言
葉は、エルサレムとユダの国の住人にとっては、彼ら・彼女らの背信にたいする審判の言葉でありました。
そして「あるいは建て、植えるために」と言われていますよう、エレミヤの口に授けられた神の言葉は、
エルサレムとユダの国の人々にとって審判を経た救済、再建の言葉でもありました。そのようにその口に
神の言葉を授けられた者として、神に対して忠実に生きようとしたエレミヤは、同胞イスラエルの人々の
中にあって異質な存在であり、孤独な存在とならざるを得ませんでした。何故ならエレミヤの語る言葉を
イスラエルの人々は喜ばなかったからです。喜ばないどころか、むしろイスラエルの人々はエレミヤに対
して攻撃的であり、エレミヤを呪うほど嫌っていたようです。エレミヤは一人の人間として自分の同胞と
友好的な関係にいたいと願ったに違いありません。しかし、そのような人間としての自然な思いは拒絶さ
れて、エレミヤは孤独に耐えなければなりませんでした。預言者としてその口から神の言葉を語れば語る
ほど、エレミヤはますます孤独に追いやられてしまいます。エレミヤはこう嘆かざるを得ませんでした。
<ああ、わたしは災いだ。/わが母よ、どうしてわたしを産んだのか。国中でわたしは争いの絶えぬ男/
いさかいの絶えぬ男とされている>(10節前半)と。そして<だれもがわたしを呪う>(10節後半)と嘆い
ているのです。このエレミヤの嘆きには、エレミヤが二つのことで引き裂かれている姿が反映されてい
るように思われます。二つのこととは、一つはこの嘆きにあるように、同胞と争いの絶えぬ男、だれも
が呪うわたしであることに耐えられないエレミヤです。だからと言って、神に仕える預言者として神の
言葉を同胞に語らなければならない。その務めを放棄することはできないエレミヤでもあります。この
二つのことで苦しんでいるエレミヤが、ここにはいるように思えてなりません。
・この二律背反的な状況は、私たちキリスト者にとっても同じではないでしょうか。キリスト者であるこ
とを隠して、みんなと同調して生きて行かれたらどんなに楽ではないか。自分はなぜキリスト者になって
しまったのだろうか。けれども、自分がキリスト者になったことを、なかったことにすることはできませ
ん。イエスによって与えられたこの自分が神の子どもとされている喜びと自由は、何ものにも代えがたい
恵みであるであることを、一度それを知らされた者として、再びそこから後戻りして元の古い自分自身に
帰って行くことはできないからです。けれどもキリスト者としての己を貫こうとすればするほど、周りの
人々から自分が孤立せざるを得なくなり、エレミヤと同じように、いさかいの絶えない者、だれもが呪う
者となっていくとすれば、それに耐えることができるでしょうか。私たちはそうなる以前に、キリスト者
である己を曖昧にしながら、抵抗のない道を選んでいるのかも知れません。
・エレミヤは、いさかいの相手であり、自分を呪う相手であるイスラエルの同胞に対しても、神に執り成
ししたと、神に向かってこのように語っています。<主よ、わたしは敵対する者のためにも/幸いを願い
/彼らに災いや苦しみの襲うとき/あなたに執り成しをしたではありませんか>(11節)と。その相手から
どんなに「争いの絶えぬ男」、「いさかいの絶えぬ男」とされたとしても、まただれもがわたしを呪った
としても、エレミヤは自分に対してそのようにする同胞イスラエルの人々のために神に執り成していると
言うのです。けれども、エレミヤはその執り成した同胞イスラエルの人々から迫害されているのです。エ
レミヤは神に向かって、<あなたはご存知です。/主よ、わたしを思い起こし、わたしを顧み/わたしを
迫害する者に復讐してください。/いつまでも怒りを抑えて/わたしが取り去られるようなことが/ない
ようにしてください。/わたしがあなたのゆえに/辱めに耐えているのを知って下さい>(15節)と訴え
ています。同時にエレミヤはこうも言っているのです。<あなたの御言葉が見いだされたとき/わたしは
それをむさぼり食べました。/あなたの御言葉は、わたしのものとなり/わたしの心は喜び躍りました。
/万軍の神、主よ。/わたしはあなたの御名をもって/呼ばれている者です>(16節)と。
・けれどもエレミヤの嘆きは深く、ついに神を告発するまでになります。<なぜ、わたしの痛みはやむこ
となく/わたしの傷は重くて、いえないのですか。>(18節a)。この止めようのない痛みの中から、エレミ
ヤは鋭い言葉で神を告発するのです。<あなたはわたしを裏切り/当てにならない流れのようになられま
した>(18節b)。と。ヴェスターマンはこのエレミヤの神への告発が「あなたはわたしを裏切り・・・」と、
神に向かって「あなた」という二人称で語っていることに注目して、このように言っています。<こうし
た神に対する告発は、最も落胆した状況の中で、人が必死になって神に信頼していることを指し示してい
るのである。現代人ならば、そのような重大な困難に直面すれば、すぐさま神に背を向けてしまうだろう。
ところが、聖書の人間はそのような場合、逃げずにむしろ神を告発するのである。大切なことは、たとえ
神に対する告発であったとしても、その言葉が神に向けられた言葉であった、という点である。つまり、
本当に神への反抗を決断したか否かは、この箇所のように二人称の文体による神への告発が、三人称の、
いわゆる(事実)「確認」のための文体へ移行した場合に初めて明白となる>と。そして<例として以下
の文章とも、現代の母親でも語りうる言葉であるが、だが、両者には大きな相違がある>と言って、この
ような二つの文章を例に挙げています。一つは「神よ、どうしてあなたは、わたしの子供を奪い取ったの
ですか。」です。もう一つは、「神は、わたしの子供を奪い取った。わたしはもう神を信じることは出来
ません。」です。そして<後者は、災いの事実を「確認する」ことを意図しているのである。>と言って
います。つまり前者の言葉「神よ、どうしてあなたは、わたしの子供を奪い取ったのですか。」という二
人称の文体による神への告発は、<最も落胆した状況の中で、人が必死になって神に信頼していることを
指し示しているので>す。
・エレミヤは、<なぜ、わたしの痛みはやむことなく/わたしの傷は重くて、いえないのですか。あなた
はわたしを裏切り/当てにならない流れのようになられました>(18節)という嘆きの中で、神からひとつ
の答を得たのです(19~21節)。<それに対して、主はこう言われた。/「あなたが帰ろうとするなら/わ
たしのもとに帰らせ/わたしの前に立たせよう。/もし、あなたが軽率に言葉を吐かず/熟慮して語る
なら/わたしはあなたを、わたしの口にする。/あなたが彼らの所に帰るのではない。彼らこそあなたの
もとに帰るのだ。/この民に対して/わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする。/彼らはあなたに戦い
を挑むが/勝つことはできない。/わたしがあなたと共にいて助け/あなたを救い出す、と主は言われる。
/わたしはあなたを悪人の手から救い出し/強暴な者の手から解き放つ。」>。ここに語られている<わ
たしがあなたと共にいて助け/あなたを救い出す>は、エレミヤが召命を受けた時に語られた神の約束の
言葉です。<この一言の中にすべてが言いつくされています。つまり、神はエレミヤと共に深い淵の中に
下り、その労苦を共に担ってくださると言うのです。神は今のようなエレミヤを見捨てなかった。これが、
エレミヤの聞いた神の言葉でした。そして今や、疲労困憊し、意気消沈した者の信仰が、回復されたので
す。エレミヤ自身は、決して理想的で、敬虔で、高貴な預言者ではなく、むしろ非常に人間的な預言者で
ありました。しかし、神はこのような人間をそのまま青銅の城壁とし、いかなる強大な権力者たちの圧力
にも打ち砕かれることがないようにすると約束しました。この約束をエレミヤは再び信じることができた
のです>(ヴェスターマン)。
・これはエレミヤの二度目の召命の出来事と言えるかも知れません。宗教改革者のルターは、ヴィッテン
ベルクの教会の扉に95か条の提題を貼って、カトリック教会への批判を明らかにしました。するとルター
はカトリック教会の攻撃に身をさらさなければならなくなりました。ルターはサクセン選帝侯フリード
リッヒの保護を受けて、かろうじてカトリックの攻撃をかわすことができました。その間ルターは自分
の机にバプテスマと書いて、自分が洗礼を授けられてキリストの恵みに与かっていることを再三確認し
て、その危機に対処したと言われています。エレミヤが嘆かざるを得なかったときに、召命の時に与え
られた神の約束の確かさを思い起こしたことと同じです。大切なことは、キリスト者である私たちがそ
の信仰の故に嘆かざるを得ない状況に立ち至った時に、神を告発するほどに神と対話すること、祈るこ
とではないでしょうか。その時、私たちの労苦を私たちが苦しんでいるその所に来られて共に担いたも
う神に出会い、私たちが見捨てられていないことを確信することが出来るのではないでしょうか。
・エレミヤが預言者としての彼の務めに誠実に向かい合う中で、苦しみ孤独に陥った時に、神の支えを
発見してその預言者の務めを全うしていったように、私たちもキリスト者としてこの時代と社会の中で
立ち続ける苦しみと孤独の中で、神の支えを発見してその自分に与えられた道を歩み続けたいと願いま
す。