なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

「希望」クリスマス礼拝説教

    「希望」テトスの手紙2章11-15節 2016年12月25日(日)クリスマス礼拝説教

・私たちはちょうど3年前のクリスマスに、教会の外階段を上ったところのこの会堂の壁に掲げてあります、

改訂しました「横須賀平和センター宣言」を公に表しました。今日はその宣言文をもう一度思い起こした

いと思います。

・「私たちは、先の戦争に対する責任を自覚し、いのちを脅かす貧困、差別、原発、軍事力をはじめとする

あらゆる暴力から解放されて、自由、平等、人権、多様性が尊重される平和な世界の実現を求め、共にこの

地に立つことを宣言します」。

・2013年・クリスマス 船越教会一同、2013年10月20日改訂、1990年05月20日初、<平和をつくり出

す人たちは幸いである。 マタイ福音書5章9節>。

・ここに記されています「自由、平等、人権、多様性が尊重される平和な世界」とは、聖書で語られている

神の国」と考えることができると思います。パウロはローマの信徒への手紙14章17節で、「神の国は、飲

み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」と語っています。「自由、平等、人権、

多様性が尊重される平和な世界」は、パウロの語る「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」に満ち満ち

た世界である神の国と言い換えることができるからです。

・ところで、パウロは何故「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなので

す」と、ここに「飲み食いではなく」と加えているのでしょうか。福音書のイエスの物語を読みますと、イ

エスは「飲み食い」を大切にしていたように思われます。二匹の魚と五つのパンを分かち合って、みんなが

満腹して、余もでるほどであったという5,000人の供食の物語や4,000人の供食の物語は、その日の糧にも困

っていた多くの群衆が飲み食いできたわけですから、イエスは飲み食いの大切さを心底知っておられた方で

はないかと思うのであります。

・今年も年末年始に寿では越冬活動がありますが、この越冬期間毎日炊き出しがあります。12月31日は年越

しそばが、新年の1月1日には餅つきをしてお餅が出ます。この炊き出しは、みんなが食べて満腹したという

福音書の5,000人、4,000人の供食物語を彷彿させるものです。

・イエスはそれだけではなく、例えば徴税人のレビの家にその仲間たちの、ユダヤ人たちからは正統派の指

導者と認められていたファリサイ派の律法学者が「罪人」の烙印をおしていた律法違反者たちや、徴税人た

ちと食事をしたように、しばしばそのような人たちと喜んで食事をされたと言われています。家族以外の他

者と食事を共にするということは、営業のための食事会のような場合は除いて、親しい仲間とする場合が多

いのです。ですから、イエスは正統を名乗るユダヤ人からは差別されていた徴税人や律法違反者とされた罪

人たちや遊女たちと食事を共にされたわけですから、彼ら・彼女らをイエスは自分の仲間と考えていたので

はないかと思われます。

・このようにイエスは決して「飲み食い」を大切ではないとは考えていなかったと思います。むしろ5,000

人や4,000人の供食の物語は神の国の祝宴を思わせるものであって、共に飲み食いする祝宴にイメージされ

神の国にあっても、「飲み食い」は「飲み食いではなく」と否定されるものではありません。

・イエスは山上の説教の「野の花、空の鳥を見よ」という有名な教えの中で、日々の衣食住のことで思い煩

っている私たちに、野の花、空の鳥を示しながらこのように語っています。「「だから、『何を食べようか

』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それらはみな、異邦人が切に求めているもの

だ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、

神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことま

で思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで充分である」

(マタイ6:31-34)。

・このイエスの教えからしても、「飲み食い」は私たちにとっても非常に大切な問題であることが、よく分

かると思います。ただその「飲み食い」=衣食住の確保を自分でするということを、私たちの生きる第一の

目標にすると、現代社会のように、地球上に生きるすべての人が食べられる食料はあっても、公平な分配が

行われていないために、片や飽食で捨てる食料が大量に浪費され、片や生存を維持する食料にも欠乏して、

飢えによって死んでいく人がいるという矛盾した社会を生み出してしまうのです。お金を第一とする私たち

人間が資本主義経済を生み出し、分配の公平をめざす社会主義経済、共産主義経済が1990年ソ連の崩壊に

よって実質的に失われてからは、資本主義経済の矛盾が、一部の富裕層と圧倒的な貧困層という格差の増大

をますます広げています。それが現代社会ではないかと思います。

パウロが「飲み食いではなく」と言っているのは、それを第一とするのではなく、「神の国は、義と平和

と喜びなのだ」と言っているのです。ですから、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれ

ば、これらのものはみな加えて与えられる」というイエスの山上の説教の教えと変わらないと言ってよい

でしょう。

・私たちもまた、一人のキリスト者として、また一つの教会として、「何よりもまず、神の国と神の義を求

めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」というイエスの教えに従って歩んでいきた

いと思います。その私たちの思いが、船越教会の「横須賀平和センター宣言」に結実していると思うのです。

・「私たちは、先の戦争に対する責任を自覚し、いのちを脅かす貧困、差別、原発、軍事力をはじめとする

あらゆる暴力から解放されて、自由、平等、人権、多様性が尊重される平和な世界の実現を求め、共にこの

地に立つことを宣言します」。今年のクリスマスに当たり、もう一度新たにこの宣言を思い起こし、新しい

年に向かっての私たちの共通の決意にしたいと願います。

・けれども、思いや決意は現実の厳しさの前に、どうしても萎えてしまうことも事実です。どんなに思いや

決意が立派でも、それだけでは生きていけません。だとすれば、思いや決意という旗を降ろして、衣食住

の確保に徹して生きることの方が、気持ち的にも楽ではないかという誘惑が襲ってきます。そのようにし

て、キリスト者の看板を下ろし、教会の礼拝にも出席しなくなり、聖書に聞くことも、祈ることも失って

しまう人もいるのではないでしょうか。

・イエスの死後誕生した教会が、ユダヤからローマ・ギリシャ世界のヘレニズム社会に広がっていくにした

がって、1世紀末ごろの初期教会のキリスト者も教会も、現代の私たちの世俗主義の脅威とは違いますが、

異端との関係で、おなじような問題に遭遇しました。先ほど司会者に読んでいただいたテトスの手紙は、

テモテ第一、第二と共に牧会書簡の一つで、そういう時代の教会にあって、信徒訓練のために伝道者であ

るテモテやテトスに宛てて書かれた手紙です。今日読んでいただいたテトスの手紙2章11節以下は、今日

のクリスマスの日曜日の聖書日課の中の一つです。

・牧会書簡は、すでに制度としての教会の形が整いつつあった時代のものですので、キリスト教信仰をヘ

レニズム社会の中で護るという護教的な面が強いものです。ですから、今日読んでいただいた直前に書か

れている、当時の奴隷階層の人への教えは、ローマの封建的な階層社会をそのまま認めた上での教えです

ので、批判的に読まざるを得ません。ちなみにその部分を読んでみますと、「奴隷については、あらゆる

点で自分の主人に服従して、喜ばれるようにし、反抗したり、盗んだりせず、常に忠実で善良であること

を示すように勧めなさい。そうすれば、わたしたちの救い主である神の教えを、あらゆる点で輝かすこと

になります」(2:9,10)。

・果たしてこの古代ローマ社会の自由人と奴隷という階層社会をそのまま認めるようなこの教えを、その

通りに受け取ることができるでしょうか。聖書と言えども、本質的なイエスの福音に照らしてその内容を

批判的に受け取らなければならないのです。このテトスの奴隷についての教えからすれば、マルチン・ル

ーサー・キングによって指導された黒人解放をめざす公民権運動は起こり得ません。キングの言葉に「自

由は決して圧政者の方から、自発的に与えられることはない。しいたげられている者が要求しなくてはな

らないのだ」はテトスの手紙の言葉とは真逆です。

・けれども、テトスの手紙2章14節の「キリストはわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたした

ちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるたけだったのです」とい

う言葉は、イエスの十字架の贖いについての言葉ですが、ここに「わたしたちをあらゆる不法から贖い出し

」と言われていることに注目したいと思います。よく言われます「罪の贖い」の信仰では、特に現在の日

本基督教団の議長以下執行部が強調する「罪の贖い」の信仰は、行為、特に政治的社会的行為を排除する

傾向があります。私たちの「横須賀平和センター宣言」も、教団の執行部の人たちはこれを信仰の行為と

は認めないでしょう。ところが、このテトスの箇所は、同じ贖罪信仰を言い表していますが、「わたした

ちをあらゆる不法から贖い出し」と言われています。「不法」とはアノミアという語で、アは否定で、ノ

モスは律法、法です。聖書においてノモスは神の定めです。モーセ十戒に示されているような一人の神

を愛し、隣人を自分のように愛する。これが神の定めです。そして私たちがその定めに従って生きるなら

ば、平和と繁栄を享受し、神に祝福されて生ることができると言っているのです。アノミアはそれを否定

する力です。そういうあらゆる不法から、イエスは御自身を献げられて、私たちを解放して下さったとい

うのです。

・このテトスの手紙の著者は、そのように語ってから、「十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、

戒めなさい。だれにも侮られてはなりません」と伝道者テトスに語っています。私はテトスではありませ

んが、これからも聖書の言葉からイエスの福音の真実を可能な限り語っていきたいと思います。そのイン

パクトをその都度その都度共有することによって、この世の悪魔的な力に呑み込まれることなく、横須賀

平和センター宣言がめざす平和を、それぞれの場でそれぞれの許される限りで追い求めていきたいと願い

ます、どうかそのような私たちの思い決意を、神が私たちの心の中に私たちと共に歩まれイエスを、日々

新たに新鮮によみがえらせて下さって、私たちが自分の内側から平和を求めて立ち上がることができるよ

うにしてくださいますように。