なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(8)

  「光が射し込む」マタイによる福音書4:12-17、2018年3月11日(日)船越教会礼拝説教


・マタイによる福音書では、イエスの活動がガリラヤからはじまったと記されています。しかもそれは預

言者イザヤの預言の成就であるというのです。

・「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、/暗

闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(15,16節)と。

・このイザヤの預言は、紀元前732年にアッスリヤの王ティグラテピレセル三世が北イスラエル王国に攻

めて来て、「ギレアデ、ガリラヤ、ナフタリなどの全地を占領し、人々をアッスリヤへ捕ら移した」後の

悲惨な、荒廃の中にある民の上に、神からの救いの光が臨むという救済預言であります。

・今私たちは月の第2週の日曜日以外の日曜日では、エレミヤ書からメッセージを与えられています。預

言者エレミヤの時代は、預言者イザヤの時代からすると、ほぼ100年くらい後になります。エレミヤの預

言者としての活動は、紀元前627年頃からと言われます。このマタイ福音書のイザヤの預言が、紀元前732

年のアッシリア王による侵略と住民の捕囚後の荒廃したガリラヤで生活していた、悲惨な状態にある民へ

の預言ですから、エレミヤの預言者としての活動が始まる約100年前ということになるからであります。

・ところで、ガリラヤという地域は、北王国の北辺に当たっているため、北王国の辺境の地であり、繰り

返し北からの侵略にさらされてきました。・・・・上記のアッスリヤによる占領と住民の捕囚という悲運に

会ったばかりではなく、その後もバビロン、ペルシャマケドニア、エジプト、シリアと支配者が交代し

て、異民族の支配下に置かれました。その結果、他民族との混血が進んだばかりでなく、文化的にも、生

粋のユダヤ教文化とは異質なるものとなりました。「異邦人のガリラヤ」という言い方には、ガリラヤに

対する深い軽蔑がこもっているのであります。高橋三郎さんは「イエスが公生涯への第一歩を踏み出すに

当たり、最も見捨てられていたこの辺境に向かったことは、その福音の本質を如実に示す、重大な選択で

あったと言わねばならなりません」と言っています。

バプテスマのヨハネがヘロデ・アンティパスによって捕えられたと聞き、イエスは住み慣れたナザレを

離れて、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムに来て、そこに住んだというのです。マタイによる福音書の著

者は、そのナザレからガリラヤへのイエスの移住は、預言者イザヤの預言の成就であり、<そのときか

ら、イエスは、「悔い改めよ、天の国は近づいた。と言って、宣べ伝え始めた」(4:17)と言うのです。

・この辺境の地ガリラヤにおいて始められたイエスの宣教とは、どのような出来事なのでしょうか。マタ

福音書の著者は、それは、預言者イザヤの預言の成就である「暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰

の地に住む者に光が射し込んだ」という出来事だったと言っているのであります。

・日本の国で辺境といいますと、地理的歴史的には沖縄を含む琉球弧や東北を指すのではないかと思われ

ます。琉球弧も東北も日本の中にあって社会的な抑圧差別が集約している場所だからです。かつては日本

の植民地であった朝鮮や台湾も辺境の地であったに違いありません。今も米軍基地の押しつけでは沖縄

が、原発では福島や青森のある東北が際立っているように思われます。

・辺境という場所は、大都市においては別の形で現れてきているように思われます。東京の山谷、大阪の

釜ヶ崎、横浜の寿町のような寄せ場や、また河川敷や海岸線、公園や駅周辺で路上生活を余儀なくされて

いる人々がいるところも、辺境と言えるのではないでしょうか。

・先週の説教では憲法前文をお配りしましたが、今日は一枚の絵のコピーがお手元にあると思います。こ

れはアイヘンバークという画家の絵です。この絵は、釜が崎で活動しています本田哲郎さんの『釜が崎と

福音』で紹介されているものです。

・この絵の下に本田哲郎さんは、「小さくされた者の側に立つ神・・・!/サーヴィスする側にではなく、

サーヴィスを受けねばならない側に、主はおられる。」という注記をつけています。

・そして本田哲郎さんは、「はじめに」という序文の中で、この一枚の絵についてこのように述べていま

す。「この絵は、ニューヨークの炊き出しの風景を公園の片隅でばくぜんとながめていて、ふと自分自身

に問いかけたところから描かれている」。画家のアイヘンバークさんは炊き出しの風景を見ていて、

〈「あれ、どっち側にキリストがはたらいているんだろう?」という問いかけをもって、見つめていま

す。そして、「いや、サーヴィスする側よりもサーヴィスを受けねばならないほど弱い立場に立たされた

その人たちの側に主はおらえる、キリストはそういう方なんだ」ということを、画家の敏感な感性で見抜

いたようです。それがこの絵に現れている。炊き出しに並んでいる列の一人にキリストを描く、という形

です〉。〈普通ならボランティアする側、助けてあげる側、お手伝いする側に、神さまがはたらいておら

れる、とイメージしてしまう(でしょう)。しかし、彼は、「そうではない。神さまはむしろ、手助けを

必要とするまでに、小さくされてしまっている仲間や先輩たちと共に立っておられるんだ」と見抜いたの

です〉。

・みなさんの中にも寿の炊き出しに参加しておられる方がいらっしゃると思います。この画家のように、

もし炊き出しの現場にイエスさまがいらっしゃるとしたら、どこにいるのだろうか? と想像したことが

あるでしょうか。

・本田哲郎さんは釜ケ崎と出会い、そこで働くようになって、この本を書いた時の16年間の経験から、

このアイヘンバークの絵を見て、本当にそうだと思っておられるのです。本田さんも、最初は炊き出しに

並ぶ人たちに、ボランティアとして自分は彼ら・彼女らの手助けをしているんだ、と思っていたようです

が、そうではなく、炊き出しに並ぶ人たちの側にイエスさまがいて、彼ら・彼女らはむしろ神に選らばれ

た人たちなんだと。そして彼ら・彼女らを通してすべての人が神の救いと解放に与るように導かれている

んだと。

・本田哲郎さんは、このように書いています。「宗教を超えて福音を」という第二部の「低みに立つ」と

いう表題のところです。「イエスは、どんな場合も、『あなたが小さくなりなさい』とは絶対にいわな

い。『貧しくなりなさい』とはいわない。たとえ、わたしたちが小さくなろうと努力したところで、貧し

く生きようと努めてみたところで、それは単なる振りでしかない。何の意味もない。大事なことは、現実

に貧しく小さくされている仲間や先輩たちを通して、わたしではなく、その人を通して、主がはたらいて

おられ、わたしやまわりの人たちにいろんなことを気づかせようとしてくださっている、そのことをしっ

かりと受け止めることです」。「・・・いちばん弱い立場に立たされている人たちの中にキリストのはたら

きを見て、『その人たちこそ、わたしに遣わされた預言者であり、キリストのほんまもんの弟子なんだ』

と受け止めなさいといいます。その思いで関わるようになったとき、わたしも解放されてゆく。自分をと

おして神をはたらかせようとするのではなく、神がまちがいなく選んでいる、弱い立場に立たされた人た

ちをあわれんで救いの手を差し伸べるのではなく、その人たちの真の望みの実現に協力するようにする。

それが、神の国を築いていく、福音を伝えるということではないですか」。

・「すべての人が小さくなる、あるいは貧しくなるのがよいのではない。いま現実に貧しく小さくされて

いる、その仲間のほんとうの願いを教えてもらいながら、その願いの実現のためにどんな協力がいちばん

いいのか、それをさがし、そして行うことがわたしたちの使命であり、目標だということです」。

・第一テモテ6章の9節、10節にはこのように記されています。<金持ちのなろうとする者は、誘惑、罠、

無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望はが、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、す

べての悪の根です>(9,10a節)。このところで、ある注解者の解説は、<「富んでいること」それ自体

ではなく、「それを熱烈に欲すること」が悪であるのに注意しなければならない(カルヴァン)。金銭で

はなく、法外な金銭欲が「あらゆる状態の悪の親」(ウェスレー)になるのである。パウロは単純に富そ

れ自体を攻撃したのではなかった。なぜなら、富は、憐みの業のために、神から委託されたものとして使

用できるからである>。

・本田哲郎さんは、「救いとは、抑圧からの解放をもたらす正義と、その結果もたらされる平和と喜びで

す」と言っています。この神の救いの業は、抑圧からの解放をもたらす正義の行動として、さまざまな抑

圧差別を受けている人々の中で、運動として進展しているのではないでしょうか。