なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(92)

    「裏切り」エレミヤ書34:8-22,2018年4月29日(日)船越教会礼拝説教


・テモテの手紙第二の4章1節以下に、福音を語る宣教者・伝道者に対してこのように語られています。


・【神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、そ

の出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励み

なさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとし

ない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、

真理から耳を背け、作り話の方にそれていくようになります。しかしあなたはどんな場合にも身を慎み、

苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。】(競謄皀4:1-5)


・これは、パウロからテモテに宛てられた手紙という形で記されていますテモテの手紙第二の一節です。

パウロが自分の弟子でもあり、同労者でもあるテモテを教えた諭す言葉です。ここに、【御言葉を宣べ伝

えなさい。折が良くても悪くても励みなさい】と、状況が良かろうが、悪かろうが、福音宣教に励みなさ

い、と言われているのであります。


・そしてここには、このようにも書かれているのです。【だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ま

す。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を

背け、作り話の方にそれていくようになります。】と。【だれも健全な教えを聞こうとしない時がきま

す。】と言われていますが、実際こういう状況が私たちの中に起こる場合があります。現在も大衆消費社

会の中で、「お金がなければ何もできない」という風潮が蔓延していて、多くの人々はお金に心が奪われ

ている状態と言えるかも知れません。70数年前には、天皇制国家であった日本も、ナチズムに支配されて

いたドイツも、【だれも健全な教えを聞こうとしない時】だったと言えるでしょう。その時、教会も【真

理から耳を背け、作り話の方にそれていくようにな】ってしまったのです。


・それでもドイツの教会には、一部作り話の方にそれないで、真理に止まり続けようとしたグループがあ

りました。ナチズムを支持する圧倒的多数の教会・「トイツキリスト者」に対して、少数ですが「告白教

会」のグループがありました。マルチン・ニーメラーやボンフェッファーやバルトなどが告白教会に属し

ていたのです。けれども、戦時下の日本の教会はほとんど【真理から耳を背け、作り話の方にそれていく

ようにな】ってしまいました。


・先週礼拝にいらした耳の不自由なOさんと筆談をしていて、私がその日の説教で引用しました「第二次

世界大戦下における日本基督教団の責任についての告白」いわゆる「戦責告白」と戦時中に日本基督教団

の名においてアジアの諸教会に送った「日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰」の話

をしました。この書簡は日本の戦争を聖戦としてアジアの諸教会のキリスト者に戦争協力を求める内容な

のです。日本の国が大東亜共栄圏を築くことによって、アジアの国々を欧米列強の植民地支配から解放す

るのだという、虚構の作り話によって、日本が欧米列強に代わってアジアの国々を植民地支配しようとし

たのであります。その作り話を無批判に受け入れて、日本の教会がその先兵の役割を担いました。その一

つの明らかな証拠が、この「日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰」なのです。


・ですから、【御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。】というテモテへのパウロ

の勧めの言葉は、福音宣教者にとっての課題ですが、この課題を忠実に果たすことは、なかなか難しいの

です。けれども、どんなに難しくても、この課題を忠実に果たさなければ、神の言葉を託された福音宣教

者としては失格になります。


・さて、今日のエレミヤの預言も、【だれも健全な教えを聞こうとしない時】と言われているような状況

において、語られたものであります。古代南王国ユダがバビロンによって攻撃され、エルサレムが包囲さ

れている状況の中で、語られたものです。前回は、同じ状況において語られました、ゼデキヤ王に対する

エレミヤの預言を学びました。エレミヤは、ゼデキヤにバビロンと戦わずして投降するようにと、「主は

言われる」と言って神の言葉を取り次ぎました。そうすれば歴代の王のように、ゼデキヤが召された時

に、香がたかれ、イスラエルの民が「ああ、王様」と言って嘆くだろうと、エレミヤはゼデキヤに語りま

した。しかし、ゼデキヤはエレミヤの預言を無視して、バビロンと共に当時の大国であったエジプトを頼

り、近隣の同盟国と結託してバビロンと戦います。その結果逃げて行くところをバビロン軍によって捕え

られ、目の前で息子たちを殺され、自らも両眼をえぐられて、盲目となってバビロンに連れて行かれ、最

後まで牢獄で過ごし、最後は獄死しました。


・今日のエレミヤ書の預言は、バビロンに包囲されている中で、奴隷を所有しているユダの国の貴族らに

対して語られたのです。バビロン軍によるエルサレム包囲が段々と厳しくなってきたため、その包囲の中

で生活していたユダの国の人々は食糧難に見舞われるようになったと思われます。そういう状況の中で、

<ゼデキヤ王が、エルサレムにいる民と契約を結んで奴隷の解放を宣言した>(8節)というのです。これ

は食糧難のために、奴隷所有者の負担を軽くするためだったと思われます。ところが、エジプト軍の到来

を知ったバビロン軍が一時エルサエム包囲から撤退したことによって、事態が好転したかに見えたとたん

に、一度解放した奴隷を再び強制的に奴隷にするということが行われたのです。この契約をないがしろに

する不届きな貴族らのふるまいに対して、厳しい神の裁きがエレミヤによって宣告されたのです。13節以

下になりますが、その個所をもう一度読んで見たいと思います。


・<「イスラエルの神、主はこう言われる。わたしは、奴隷の家エジプトの国からあなたたちの先祖を導

き出した日に、彼らと契約を結んで命じた。だれでも、同胞であるヘブライ人が身を売って六年間、あな

たのために働いたなら、七年目には自由の身として、あなたのもとから去らせなければならない、と。と

ころが、お前たちの先祖はわたしに聞き従わず、耳を傾けようとしなかった。しかし今日、お前たちは心

を入れ替えて、わたしの正しいと思うところを行った。お前たちは皆、隣人に解放を宣言し、わたしの名

で呼ばれる神殿において、わたしの前に契約を結んだ。ところがお前たちは、態度を変えてわたしの名を

汚した。彼らの望みどおり自由の身として去らせた男女の奴隷を再び強制して奴隷の身分としている。/

それゆえ、主はこう言われる。お前たちが、同胞、隣人に解放を宣言せよというわたしの命令に従わな

かったので、わたしはお前たちに解放を宣言する、と主は言われる。それは剣、疫病、飢饉に渡す解放で

ある。わたしは、お前たちを世界のすべての国々の嫌悪の的とする>(13-17節)。


・神は、イスラエルを敵の手に渡し、滅びるままに放置するというのです。22節の<わたしは命令を下

す、と主は言われる。わたしは、彼ら(バビロン軍)をこの都に呼び戻す。彼らはこの都を攻撃し、占領

して火を放つであろう。わたしは、ユダの町々を、住む者のない廃墟とする>という言葉は、紀元前587

年のバビロン軍によるエルサレムの破壊とバビロン捕囚によって成就することになるのです。


・エレミヤはバビロン軍によるエルサレム包囲と破壊が迫る中で、ユダの国の王ゼデキヤにもその民に

も、彼ら彼女らが喜ぶ偽りの言葉を語りませんでした。現実を直視しつつ、預言者として神の真実の言葉

を語りました。ここでは神との約束をないがしろにするユダの国の民の滅びを率直に語っているのです。


預言者エレミヤにとってイスラエルの民は、神ヤハウエと契約を結び、その定めである律法を与えられ

ている、神の民でありました。例え大国バビロンによる攻撃を受け、エルサレムが包囲されていても、そ

の危機的な状況の中にあるユダの国の王にしろ、その民にしろ、何よりも神ヤハウエと契約を締結してい

る民として、それにふさわしく生きることでした。そのイスラエルの民の中には、さまざまな事情によっ

て、自分の身を売って他の人の奴隷になって働かなければならなかった人がいました。彼らはイスラエル

の法によれば、6年間奴隷として働けば、7年目には自由の身になることができたのです。しかし、その奴

隷解放の法は、実際には守られなかったようです。<お前たちの先祖はわたしに聞き従わず、耳を傾けよ

うとしなかった>と言われているからです。ところが、バビロン軍の包囲網の中で、食糧難のためにとは

言え、<ゼデキヤ王が、エルサレムにいる民と契約を結んで奴隷の解放を宣言した>(8節)ので、奴隷を

所有していた貴族らは奴隷を解放したのです。そのことを、エレミヤは、主は言われると言って、神の言

葉として、先祖が耳を傾けようとしなかった奴隷解放を、<しかし今日、お前たちは心を入れ替えて、わ

たしの正しいと思うところを行った。お前たちは皆、隣人に解放を宣言し、わたしの名で呼ばれる神殿に

おいて、わたしの前に契約を結んだ>と語って、評価しているのです。ここにはどんな状況においても、

イスラエルの民は神の民として、神と契約を結んでいるのだから、それにふさわしく生きていくことこそ

が求められているのだという、エレミヤの信仰が示されているのではと思います。


・私たちは、エレミヤのように、またテモテへの手紙第二の著者が語っているように、<御言葉を宣べ伝

えなさい。折が良くても悪くても励みなさい>を、誠実に実践していきたいと思います。と同時に神の前

に違いのある一人ひとりの尊厳が大切にされて、お互いが尊重される関係を国家や民族の枠を越えて、人

と人との間に築いていきたいと思います。


・昨日寿活動委員会の内部学習会がありました。テーマは「性暴力加害者とどう向き合うのか」でした。

そのお話しの中で「炒り卵とゆで卵」を例にして、カップルでもAとBは別々。違いを尊重することの大切

さが語られました。このことは、身近な人間関係においても、国家と国家、民族と民族のような大きな集

団同士の関係においても同じではないかと思います。侵略は違いを認めず、自分の中に支配という形で相

手の国や民族を取り込むことです。「バラバラの一緒」が福音的な関係ではないでしょうか。お互いの尊

厳を大切にし、違いを認め合って共に生きていくことへと、神は私たちを招いているのではないでしょう

か。国家よりも、民族よりも、さまざまな集団よりも、一人一人が大切なのです。


・エレミヤが国家的な危機の中で奴隷解放に執着するのも、たとえ国家が滅んだとしても、まさに大切な

一人一人が、違いを認め合って共に生きていくことなのです。