なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

鶴巻通信(10)大楠と桜

鶴巻通信(10) 大楠と桜 2021年4月8日

 

  4月に入り一気に草や木の様相が変わりました。冬の間葉のなかった大楠には新しい葉がついています。

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  この大楠は、生前連れ合いがこの大楠には気が出ているのでその気をからだにもらうのだと言って、時々来ては、幹のくぼみに体をあずけていました。病気になってからも、散歩に出られるまではそうしていました。

  今年は横浜の大岡川沿いの桜は見れませんでしたが、鶴巻の近場で楽しむことができました。下記の桜は、時々買い物に行く平塚の朝つゆ広場の向かいにある花菜ガーデン外側の道路沿いのものです。右側が花菜ガーデンです。

 

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 上の桜は、秦野市が経営する日帰り温泉、弘法の里湯の裏手にあるものです。温泉に入った後に楽しみました。

 

船越通信(482)

船越通信、№482 2021年4月4日 北村慈郎

  • 「主イエスの復活をお祝いいたします。十字架の苦と死からの主の復活であったことを思い、私たちもそれぞれに与えられた十字架を負うことによって、主の新しい命に与りたく願うものです」(関田寛雄先生からいただいた葉書から)。
  • 3月28日の日曜日は、久しぶりに船越教会の会堂での礼拝を行うことができました。首都圏の緊急事態宣言が21日(日)までで解除されたからです。私は日曜日の準備を鶴巻で終えて、電車の過密時間を避けて、27日(土)の夜10時ごろに船越教会に来ました。それから約3か月空けていた2階の牧師館の掃除をして、これも3か月間使っていなかった船越に置いてある私のパソコンで週報、船越通信、礼拝式及び説教原稿を開いてみました。最初なかなかWordもメールも開けませんでしたので、階下和室の教会のパソコンや電話機が置いてあるところにあるランの状態を見に行きました。機材が三つあるのですが、そのうちの二つが机の下に横倒しになっていましたので、その二つを立てて、電源が入っているかを確認しました。私は機材に関する技術的な知識はありませんので、ちょっと心配でしたが、牧師館の私のパソコンを操作したところ、何とかWordを開くことができましたので、その夜の必要な作業をすることができました。説教は大体準備していましたので、3時間ほど寝てから日曜日の午前2時半ごろ起きて、メール配信のため文章を整える作業をし始めましたが、思わぬほど時間がかかり、やっと出来たのが6時半ごろになってしまいました。それからメール配信作業を始めましたが、送信すると私の受信欄にも出るようにしてあるのですが、なかなか受信欄に出てこないので、あわててしまいました。いろいろやっているうちにやっと送信することができ、ほっとしました。
  • その後階下に行き、礼拝の準備を終えて、牧師館でサンドイッチと紅茶で朝食を取りました。それからしばらく休んで、久しぶりの会堂での礼拝に臨みました。この日は礼拝後有志による教会掃除がありました。この日の掃除では、大分前にN・Hさんが作ってくださった、台所の外にある洗濯用の物干し棒で出来ていた棚が壊れかけているので、その撤去をすることにしていましたが、雨のためその外掃除は中止し、内掃除だけ行いました。
  • 3日(土)午前10時から清水ヶ丘教会で教区総会があり、私も出席しました。ところが77名の定足数に出席者が足りず、総会は成立しませんでした。急遽総会会場で常置委員会を開き、常置委員会決議で3人の按手礼志願者の質疑応答と承認議決を行い、総会出席者は常置委員会陪席ということで、按手礼式を行いました。この日は一度鶴巻に帰って、夜船越に来ました。
  • 斎藤幸平『人新生の「資本論」』⑦

  ▼資本主義の歴史を振り返れば、国家や企業が十分な規模の気候変動対策を打ち出す見込みは薄い。解決策の代わりに資本主義が提供してきたのは、収奪と負荷の外部化・転嫁ばかりなのだ。矛盾をどこか遠いところへ転嫁し、問題解決の先送りを繰り返してきたのである。/実は、この転嫁による外部性の創出とその問題点を、早くも十九世紀半ばに分析していたのがあのカール・マルクスであった(42頁)。▼・・・資本はさまざまな手段を使って、今後も、否定的帰結を絶えず周辺部へと転嫁していくにちがいない。/その結果、周辺部は二重の負担に直面することになる。つまり、生態学帝国主義の掠奪に苦しんだ後に、さらに、転嫁がもたらす破壊的作用を不平等な形で押しつけられるのである(50頁)。▼・・・外部化や転嫁が困難になると、最終的に、そのツケは、自分たちのところへと戻ってくる。これまで、海に流れて見えなくなっていたプラスチックごみは、マイクロ・プラスチックとして、魚介類や水などのなかに混じって、私たちの生活に舞い戻ってきている。実際、私たちは毎週クレジットカード一枚分のプラスチックを食べているといわれている。また、二酸化炭素も、気候変動を引き起こし、その影響が熱波やスーパー台風という形で日本を毎年襲うようになってきた。/また、ヨーロッパではシリア難民が大きな社会問題となり、それが右派ポピュリズムの台頭を許し、民主主義を脅かしている。実は、シリアの内戦も、原因のひとつは気候変動だといわれている。シリア一帯で続く長期の干ばつによる不作で人々は困窮し、社会的紛争の勃発する可能性が高まっているというのである。/アメリカでも同様である。ハリケーンの大型化はもちろんのこと、アメリカの国境には、ボンジュラスからの難民キャラバンが押し寄せている。彼らもまた単に暴力や政治的不安定さから逃れようとしているだけでなく、気候変動による農業の困難さとそれに伴う困窮状態を訴えているという。・・・EUも押し寄せる難民をトルコに押しつけている。だが、それもいつまでも続けることはできないだろう。気候変動と環境難民は、これまで先進国で不可視だった帝国的生活様式の矛盾を物質・身体として可視化し、既存の秩序を転覆しようとしている(53-54頁)。▼しかし、この危機の瞬間には、好機もあるはずだ。気候危機によって、先進国の人々は自分たちのふるまいが引き起こした現実を直視せざるを得なくなる。外部性が消尽することで、ついに自分たちも被害者となるからである。その結果、今までの生活様式を改め、より公正な社会を求める要求や行動が、広範な支持を得るようになるかもしれない。/ウォーラースティンの言葉を借りれば、これこそ、資本主義システムの危機がもたらす「分岐」である。外部の消尽は、今までのシステムが機能不全を起こす歴史の分かれ目に、私たちを連れて行くのだ(55頁)。/だから、外部の消尽が起きた今こそ歴史の分かれ目だと、ウオーラスティンは言い残したのだった。資本主義システムが崩壊し、混沌とした状態になるのか、別の安定した社会システムに置き換えられるのか。その資本主義の終焉に向けた「分岐」が、いまや始まっているのである(56頁)。

・ 斎藤によれば、今私たちは「資本主義システムが崩壊し、混沌とした状態になるのか、別の安定した社会システムに置き換えられるのか」という歴史の分岐点にいるのだというのです。今回はここまでにしておきます。

4月4日の説教の補足

皆様へ

 

昨日イースターの礼拝説教を配信しましたが、今朝

毎朝読んでいますボンフェッファーの『主のよき力に守られて

~ボンフェッファーの一日一章~』の4月4日と4月5日を読みました。

私は昨日の説教で「イエスの十字架を共に担う苦しむ神」について

少し触れました。今日読んだボンフェッファーの一日一章には、

そのことが豊かに展開されていましたので、昨日の説教の補足として

下記に紹介します。センテンスごとに文章を切っているのは、私がメモした

ときにしたものです。本文はいくつか段落はありますが、一続きの文章です。

ご参考にしていただければ幸いです。

では、新しい一週の皆さまの歩みの上に主の支えを祈りつつ。

 

4月4日 神の苦難にあずかる

  • ・・・人間は、この神の失った世界に対する「神の苦しみ」に共にあずかるように、呼び出されている。
  • したがって、人間は、実際に神の失った世界の中で生きなければならず、しかも、この世界の無神性を何らかの仕方で、宗教的に覆い隠したり、美化したりしてはならない。
  • 人間は、「この世に」生きなければならず、まさにそのことによって神の苦しみにあずかることになる。
  • <人間が、「この世に」生きることを許されている>ということは、<人間が誤った宗教上の拘束や抑制から自由にされている>ということを意味する。
  • キリスト者であるということは、ある特定の仕方で宗教的であったり、また何らかの方法に基づいて、自分を何にか(「罪人」とか、「悔い改める者」とか、「聖徒」とかに)仕立てあげることではない。
  • キリスト者であるということは、人間であるということなのだ。キリストは僕たちの中に、ひとつの型にはまった人間ではなく、生きた人間そのものを造り出す。そして僕たちは、宗教的行為によってキリスト者となるのではなく、この世の苦しみの中で神の苦しみにあずかることによって、キリスト者となるのである。
  • 自分の困窮や、自分の問題、自分の罪、自分の不安をまず考えるのではなく、イエス・キリストの道に、メシヤの出来事に、自分も入っていく、その結果イザヤ書53章が成就されるようになること、――これこそが「悔改め」である。
  • イエス・キリストにおける神のメシヤとしての苦しみの中に、人間が引き入れられていくとういことは、新約聖書の中に様々な仕方で記されている。弟子たちへの服従への呼びかけによって、罪人と共にした食卓の交わりによって、狭い意味での「回心(心を神に向けること)」によって、「罪の女」の行為(それは罪の告白なしに行われた)によって(ルカ7:36以下、「イエスに香油を塗った女」について書かれている箇所)、病人のいやしによって、また幼い子を受け入れることによって、‥‥これらのことによって人々は神の苦しみの中に引き入れられたのである。「ほんとうのイスラエル人」であったナタナエル(ヨハネ1:47)から、アリマタヤのヨセフ、墓のかたわらの女たちに至るまで、彼らすべてに共通している唯一のことは、彼らがみな、キリストにおける神の苦しみにあずかっているということである。これこそが、彼らの信仰なのである。

 

4月5日 われわれを見捨てる神

  • 僕たちは、<たとえ神がいなくても、この世のただ中で生きていかなければならない>ということを認識することなしに、誠実であることはできない。しかも、僕たちがこのことを認識するのは、まさに、神の前においてである。神こそが、僕たちにこのことを認識させるのである。僕たちは「成人となる」ことによって、神の前における自分たちの状況を正しく認識するようになる。神は、僕たちが「神なしに生活を営むことができる者」として生きなければならないということを、僕たちに知らしめる。僕たちと共にいる神とは、僕たちを見捨てる神なのである(マルコ15:34)。
  • もちろん、「神」という作業仮設なしに僕たちをこの世に歩ませる神の前に、僕たちが絶えず立ち続けることに変わりがない。僕たちは、したがって、神の前で、神と共に、神なしで生きるのである。
  • 神はご自分をこの世から十字架へと追いやる。神はこの世においては無力で弱い。しかし、神はまさにそのようにして、しかもそのようにしてのみ、僕たちのもとにおり、また僕たちを助けるのである。
  • キリストが自分の全能によってではなく、自分の弱さと自分の苦難によって僕たちに助けを与えるとうことは、マタイによる福音書8章17節の「彼は、わたしたちの弱さを身に受け、わたしたちの病を負った」という言葉からも全く明瞭である。
  • この点が、あらゆる宗教との決定的な相違点である。人間がもつ宗教は、人間が困窮に陥ったときに、この世において神の力を示す。ところがその場合の神とは、人間の陥っている境遇に、無理やり引き寄せられた「神」にほかならない。
  • しかし聖書は、人間に神の無力と苦難とを示す。そしてこの苦しむ神こそが、人間に助けを与えることができる神なのである。その限りのおいて、<この世が成人となる>ということは、<誤った神概念が一掃される>ということであり、<僕たちの目が解放され、その結果、この世の中で「無力さ」によて「力」と「場所」とを獲得する聖書の神を見るようになる>ということなのである。 

 

 

 

 

マタイによる福音書による説教(117)

4月4日(日)イースター礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう

(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃美歌    204(よろこびの日よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-204.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編66編1―9節(讃美歌交読詩編69頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  マタイによる福音書28章1-10節(新約59頁)

    (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  425(こすずめも、くじらも)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-425.htm

説教     「恐れながらも喜び」  北村慈郎牧師

祈祷

  • 今日は、十字架に架けられ、殺されて、葬られた、イエスが復活した日です。このイースターの出来事によって、一度十字架を前にして、自らの弱さと過ち(罪)によってイエスとの関係を、「裏切り、逃亡、否認」という形で、自分から断ち切った弟子たちが、再び新たにイエスとの関係を築き直し、イエスの弟子として生きていくようになります。ですから、イエスの復活がなければ、ガリラヤから始まったイエスの運動は、イエスの死によって終わってしまったに違いありません。

 

  • その意味で、イエスの復活によって、イエスを信じる人々の群れである教会が誕生したと言えます。聖霊降臨は、復活して今も私たちと共にいてくださるイエスを信じて、私たちが生きていけるようにしてくださる神の霊です。命の風です。教会に連なる私たちは、その神の命の風を日々受けながら信仰者として生きているのではないでしょうか。今日はそのことをもう一度確認することができればと思います。

 

  • 実は、マタイ福音書28章1-10節をテキストにイースターの礼拝説教を、船越教会で今までにも2回はしています。以前にした説教と重なるところが少しあるかも知れませんが、ご容赦ください。

 

  • さて、キリスト者にとっての神信仰は、十字架の死からイエスを甦らせてくださった、イエスが「アッバ、父よ」と祈り、信じた神を信じる信仰です。その神は、十字架上のイエスが、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」と叫んだ神です。

 

  • このイエスが叫び祈った神は、十字架からイエスを引き剥がして助けてくださる神ではありません。むしろ、十字架の苦しみをイエスと共に担っている神です。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」と叫ぶイエスと共におられる神です。そして十字架につけられて殺され、葬られたイエスと共に、使徒信条によれば、「陰府に」まで降られた神です。

 

  • 昨日清水ヶ丘教会で教区総会がありました。定足数不足で総会は成立しませんでしたが、総会出席者は陪席という形で、常置委員会決議で3人の方の按手礼式が行われました。質疑応答のときに一人の按手礼志願者の方が、こんなことをおっしゃいました。昨日は土曜日です。教会歴では一昨日がイエスが十字架につけられた受難日で、今日の日曜日にイエスが復活したわけですから、昨日の土曜日は、イエスはお墓にいたことになります。そのような日に総会が開かれ、自分が按手礼を受ける意味を自分なりに考えさせられたというのです。その方は、この日イエスは「陰府に」に下り、既に召された人々に福音を語り、慰め励ましておられたのではないかという趣旨のことをお話ししました。イエスの埋葬にも共なる神は、死者たちにもイエスによって福音を伝え、慰め励まし、生きている者だけなく、死者たちをも救おうとされたというのです。

 

  • エスが十字架に架けられ、殺され、そのように墓に埋葬されてから、「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアの二人が、イエスの埋葬された墓を見に来ました。二人は安息日が始まる前にあわただしく葬られたイエスのことが気になり、安息日が終わった日曜日の朝早くイエスが埋葬されたお墓にやって来たのでしょう。

 

  • マタイ福音書では、このイエス復活の記事の前に、イエスの遺体を弟子たちが盗み出して、復活したと言いふらすのを恐れて、ファリサイ派の人々はピラトに願って、イエスの葬られた墓の前に番兵を置いたと記されています(27:62-66)。しかし、二人の女性が墓に来た時、これもマタイ福音書にしか記されていないのですが、「大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」(2-4節)と言われています。

 

  • 「天使は婦人たちに言った。恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かにあなたがたに伝えました」(5-7節)と。

 

  • 「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び(「恐れと大きな喜びとをもって」)、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行きました」(8節)。

 

  • 「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』(喜びあれ、平安あれ)と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。『恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる』」(9-10節)

 

  • この記事によりますと、二人のマリアは、空っぽの墓の前で復活した、十字架につけられたイエスの足を抱いたと言われています。ここで二人のマリアに出会っているのは、十字架につけられて殺されたイエスご自身なのです。殺されて、死んで、墓に埋葬されている筈のイエスが、復活して二人のマリアの前にいるのです。そしてそのイエスの体の一部である足を、二人のマリアは抱いたというのです。この時二人のマリアは、イエスの十字架において感じた死の恐れや死の支配から自由になっていたに違いありません。「イエスは死んだ」から「イエスは生きている」に変わっていました。

 

  • 十字架のイエスである、復活のイエスに出会って、イエスの足を抱き、その前にひれ伏している二人のマリアに、十字架を前にしてイエスを否認し、逃亡した弟子たちをイエスは「兄弟たち」と言って、このように語ったというのです。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と。

 

  • エスが十字架に架けられたとき、弟子たちは「裏切り、逃亡、否認」によって、イエスを捨ててしまった者たちです。イエスの十字架による処刑後も、弟子たちは、自分たちも捕まるのではないかと恐れて隠れていました。そんな自分たちのことを、弟子たちは、イエスが「わたしの兄弟たち」と、イエスを裏切ってしまった今も思ってくれているとは、想像すらできなかったことでしょう。けれども、二人のマリアに復活したイエスは、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と、確かに語ったというのです。

 

  • この世に生きている以上、私たちは「恐れ」から自由になることはできません。病気や貧困、拷問など、その恐れは、つきつめて言えば「死」への恐れではないかと思われます。けれども、復活のイエスによって、その「恐れ」から解放されて、「大きな喜び」が私たちには約束されているのです。復活の主イエスがこの世にあって恐れの只中にある私たちに「恐れることはない(喜びあれ、平安あれ)」と言ってくださるからです。

 

  • ガリラヤからイエスに従ってきた弟子たちや群衆は、イエスを十字架にかけて殺した権力者たちを恐れて、イエスを裏切ったり、イエスの下から逃げ去ってしまいました。自分たちもまた、イエスのように十字架に架けられて殺されてしまうのを恐れたからです。この恐れから解放されない限り、ガリラヤにおいてイエスが宣べ伝えた神の国の到来を信じて、イエスに従った弟子たちや群衆が、これからもその道を生きていくことは不可能だったでしょう。十字架に架けられ殺されて、イエスがいなってしまったのですから。

 

  • けれども、聖書はその十字架に架けられ殺されたイエスが復活して、霊において弟子たちや群衆と共にあると告げているのです。ガリラヤからエルサレムのコルゴダまでは、肉のイエスが弟子たちや群衆の先頭に立って、神の国の到来を告げ、この世にあって神に国にふさわしく歩んできたのです。ジャン・バニエが書いた『きいてみたいな イエスさまのおはなし』という本があります。イエスの言葉とそれ対応する絵が描かれている本です。その一節にこのようにイエスの言葉が記されています。

 

  • 「また、イエスさまの 声がきこえます“困っている人、よわい人、くるしんでいる人のために お祈りしたり できれば 近くで あなたの力を わけてあげましょうね。平和をつくるために はたらく人たちと こころをあわせて あなたの近くに ひとつづつ 平和をつくってくださいね 天の神さまが きっと たすけて しゅくふくを おくってくださいますよ”」

 

  • ガリラヤからイエスに従ってきた弟子たちも群衆も、イエスのこのような声を聞いて、イエスと共に平和をつくるために働いてきたのではないでしょうか。その道がイエスの十字架によって、ある意味で断たれてしまったように思われます。弟子たちや群衆は、自分の死を恐れて、イエスを捨て去って逃げてしまったからです。このような自分かわいさにイエスを裏切り、イエスの下を逃げ去ってしまった弟子たちや群衆が、復活したイエスに出会って、もう一度イエスの下に集まってやり直していく。それがイエスに従う者たちの群れである教会の誕生なのです。

 

  • エスを信じて生きる者は、イエスの十字架において自分自身の古い自己の死を経験し、新しい人として、イエスに結ばれて、神に対して生きているのです。けれども、私たちが肉体において存在する限り、古い自己が自分の中で生き返ることはいつでも起こり得ることです。天使から「恐れることはない」と言われた婦人たちはが、「恐れながらも大いに喜んだ」と言われていますが、この「恐れながらも大いに喜ぶ」という言葉の中に、復活のイエスに従って生きる信仰者のあり様が言い表されているのではないでしょうか。イエスの復活に出会って、命が死に打ち勝ったという喜びを胸に秘めながら、信仰者は悩み多いこの世を神に対して生きていくことが出来るのです。

 

  • 同じ信仰の真実を、ヨハネ福音書の言葉で言いかえれば、このようになります。「あなたがたは世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(16:33)。そのような視座から、もう一度ジャン・バニエの本のイエスの声に耳を傾けたいと思います。「また、イエスさまの 声がきこえます“困っている人、よわい人、くるしんでいる人のために お祈りしたり できれば 近くで あなたの力を わけてあげましょうね。平和をつくるために はたらく人たちと こころをあわせて あなたの近くに ひとつづつ 平和をつくってくださいね 天の神さまが きっと たすけて しゅくふくを おくってくださいますよ”」

 

  • 復活のイエスを信じて、「平和をつくるために はたらく人たちと こころをあわせて あなたの近くに ひとつづつ 平和をつくる」業に、それぞれの場で参与していくことができれば幸いに思います。

 

 

祈ります。

  • 神さま、今日はイースターです。この会堂で共に礼拝することができ、感謝いたします。
  • けれども、緊急事態宣言は解除されましたが、コロナウイルス感染者の拡大が各地に見られます。私たち一人一人が十分な感染防止に努めると共に、コロナウイルス感染拡大を防ぐ適切な対策が政府や自治体によって行われますように。またコロナウイルス感染拡大により困難を覚えている方々への適切な支援がなされますように。
  • 神さま、私たちには、今なお古い自分が生きていて、自分の十字架を背負って、イエスに従って生きることに全力を傾けることができない弱さがあります。どうか私たち一人一人に、イエスによって贖われた新しい人として生きる命を豊かにお与えください。

そして、今暴力と差別と格差が露になっているこの社会の中で、平和と公正と和解のために少しでも働くことができます、私たちをお導きください。

  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌    575(球根の中には)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-575.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。

船越通信(481)

船越通信、№481    2021年3月28日 北村慈郎

・  本通信は、昨年12月末の日曜日と新年の1月3日の日曜日を急遽会堂礼拝はなしにして、メース配信自宅礼拝にしましたが、1月10日(日)は会堂礼拝ができると思って、1月10日の週報用に書いたものです。そのまま掲載します。

・   

・  厳しい年明けになり、新春の賀詞をわだかまりなく言えない状況かもしれませんが、それでも、地球が全滅して人類が滅亡することなく、新しい年が与えられたことは、喜ぶべきことであり、神に感謝しなければならないと思います。そのような思いを込めて、新年おめでとうございます。

・  昨年12月20日のクリスマス礼拝までは、船越教会の礼拝堂で礼拝を共にすることができました。けれども、その後新型コロナウイリス感染拡大が続き、急遽12月27日(日)と1月3日(日)の礼拝は、会堂での礼拝はお休みし、メール配信による各自の自宅礼拝のみにすることにしました。

・  1月3日(日)は私の冬期休暇で、礼拝説教は12月13日(日)の礼拝説教を礼拝出席者に文書で配り、それをみんなが読んで話し合うことにしていました。しかし、会堂での礼拝はお休みにしましたので、話し合いがないので、ただ既にした説教原稿をメール配信するだけではと思い、1月3日(日)の礼拝説教も私が担当することにしました。

・  コロナ感染拡大が止まらず、お正月に入ってからも急激に増えていますので、首都圏の1都3県の知事から政府に緊急事態宣言発令が要請され、1月7日に菅首相によって首都圏に緊急事態宣言が出ました。期限は2月7日(日)ということですので、船越教会の日曜日の会堂での礼拝も2月7日(日)まではお休みにしました。ただ今の状況では、2月7日に緊急事態宣言が解除される可能性は低いと思われます。感染拡大を抑え込まないと、緊急事態宣言の解除は難しいからです。2月7日までに抑え込めるとは、今の状況ではとても思えないからです。ですから、日曜日の会堂での礼拝中止は、さらに長引くかもしれません。2月7日(日)以降のことが、後日改めてご連絡するようにします。

・  3日(日)と10日(日)のメール配信は午前2時ごろにしましたが、受信される方がスマホの場合には、受信したときに音が出るので、夜中にスマホの受信音が鳴って、何事かとびっくりされる方もあったかもしれません。私はそのことに気づきませんでした。申し訳ありませんでした。17日(日)からは、日曜日の朝7時ごろに発信するようにいたします。

・  年末年始、私自身は比較的平穏に過ごすことができました。ただ昨年の年末に、鶴巻に千賀を見舞ってくれた彼女の従兄弟たちとの会食があったことや、教区のセクシュアル・ハラスメントの委員会を鶴巻で開いてくれて、委員の人たちとの会食があったことなどを想い出しました。この二つの会食が、彼女が食事作りをした最後でした。1月3日で千賀が亡くなって10か月が経ちました。千賀のいないお正月は、1967年4月に彼女と結婚してはじめてでした。

  • 斎藤幸平『人新生の「資本論」』⑥

▼犠牲に基づく帝国的生活様式:・ドイツの社会学ウルリッヒ・ボラントとマルクス・ヴィッセンは、グローバル・サウスからの資源やエネルギーの収奪に基づいた先進国のライフスタイルを「帝国的生活様式」(impeiale Lebensweise)と呼んでいる(p.27-p.28)。/・問題は、このような収奪や代償の転嫁なしには、帝国的生活様式は維持できないということだ。グローバル・サウスの人々の生活条件の悪化は、資本主義の前提条件であり、南北の支配従属関係は、例外的事態ではなく、平常運転なのである(p.28)。/▼犠牲を不可視化する外部化社会:・ミュンヘン大学社会学者シュテファン・レーセニッヒは、このようにして、代償を遠くに転嫁して、不可視化してしまうことが、先進国社会の「豊かさ」には不可欠だと指摘する。これを「外部化社会」と彼は呼び、批判するのだ(P.30)。/・先進国は、グローバル・サウスを犠牲にして、「豊かな」生活を享受している。そして、「今日だけでなく、明日も、未来も」この特権的な地位を維持しようとしているとレーセニッヒは断罪する。「外部化社会」は、絶えず外部性を作り出し、そこにさまざまな負担を転嫁してきた。私たちの社会は、そうすることでのみ、繁栄してきたのである(p.30)。  (以上引用、続く)

  • 江戸時代の鎖国していた時の日本は、ごく一部外国との交易の窓口はあったとしても、経済的にはほぼ内需だけで成り立っていた社会でした。ですから、その時の日本社会は、上記に指摘されている「帝国的生活様式」も、「犠牲を不可視化する外部社会」も、無関係だったと言えるかも知れません。ところが、現代資本制社会では、特に先進国と言われる国々は経済活動が世界大に広がっていて、GDP世界第三位の日本に生きている私たちは、「帝国的生活様式」によって生活し、「犠牲を不可視化する外部社会」を作り出してしまっているのです。私たちの豊かな生活は、他者への抑圧と搾取という、他者の犠牲の上に成り立っているということです。この現実を、私たちは直視しなければならないと思います。ではどうしたらよいのか? 上記斎藤の著書を読み進んでいくと、その解答が与えられます。少しお待ちください。
  • さて、この問題に対して吉本隆明も、どの本で書いていたのかは忘れてしまいましたが、「贈与経済」ということを言っていたように思います。先進国とグローバル・サウスの国とにある搾取を、先進国がグローバル・サウスから労働力と資源を得た分に見合った経済的贈与を、先進国がグローバル・サウスの国にするというものだったと思います。それを吉本は「贈与経済」と言っていたように思います。その背景には、グローバル・サウスの国が先進国と同じように経済発展をめざすことは、実際には不可能で、例え可能であったとしても、そうしたら地球が持たなくなるので、先進国によるグローバル・サウスの国へのそれに見合った経済的贈与が現実的ではないかということだったように思います。一つの考え方だと思いますが、富裕層と政治が結託した今の国家体制の中では、難しいのではないかと思われます。ドイツの首相メルケルさんのように、一人一人の人権を大切にした民主的な社会に呼応する国家像を描いている政治家が多ければ、贈与経済も可能だと思いますが・・・。先進国と言っても、民主的な市民社会と国政が呼応している国は、ほとんど見当たらないのが現状です。

土筆の群生 鶴巻通信(9)2021年3月30日

土筆の群生 鶴巻通信(9)2021年3月30日

 

3月が終わろうとしています。この月は、私にとっては昨年から特別な月になりました。連れ合いが帰天したのが昨年の3月3日で、彼女の誕生日が3月19日だからです。彼

女の帰天1年を憶えて下さって、お花をおくってくださった方、はがきやお手紙をくださった方には、心から感謝します。1日ごろからヤマト便で、また近くの花屋が直接に、日によっては二度、三度とお花が届きました。中には直接届けて下さった方もありました。彼女の写真の周りには、その沢山のお花がいっぱいでした。しかし、ほぼ3週間ほどで生花は全部枯れて今はありません。しかし、その時いただいた白とピンクの胡蝶蘭の鉢だけは花をつけて残っていて、昨年帰天した時にいただいた枯れない白の胡蝶蘭と共に、花の好きだった千賀を今も喜ばせてくれています。

19日の誕生日には娘と二人で、千賀を想い出しながら夕食を共にしていましたが、食事中に生前千賀が信頼していた神戸の友人から、千賀の誕生日を憶えて下さって、お電話をいただきました。また、19日には、千賀が国会前の辺野古新基地建設反対座り込みで友人になった方から、花が咲いた桜の木の鉢植えで、その鉢に桜の花を見上げた猫が描かれている、小さな紙の置物を、多色のサインペンで、「Happy Birthday、2021.3.19. 千賀さんに出会えたことを心から感謝します」と書いたメッセージのカードを添えて贈ってくださいました。ありがたいことです。

 

以前の鶴巻通信に土筆一本だけの写真を掲載しましたが、数日前に、土筆の群生を写真に撮りましたので、土筆は千賀が春になると楽しみにしていましたので、それを下記に添付します。

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たまたま今日の東京新聞朝刊を読んでいたら、西田幾多郎について藤田正勝さんという京都大学名誉教授の方が書いていた文章に出会いました。その中に、早世した娘の記念に出版した『国文学史講話』の序文を、その著者藤岡作太郎は同じように娘をなくした友人である西田幾多郎に依頼したのだと思いますと言って、著者は西田幾多郎が書いたその序文を紹介しています。その序文の中で西田は、「今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりして居た者が、忽ち消えて壺中の白骨となると云うのは、如何なる訳であろうか。もし人生はこれまでのものであるならば、人生ほどつまらぬものはない、ここには深き意味がなくてはならぬ」と記しているそうです。この言葉を受けて著者はこのように述べています。「もし愛する子供がたまたま亡くなったとか、理由なく亡くなった、あるいは運命で亡くなったというのであれば、これほどつまらないものはないというのです。それでは納得することができないという気持ちを西田はここで、『ここには深き意味がなくてはならぬ』と表現しているのです。その深い意味」が何であるのか、この問いに答えることは決して簡単なことではないと思います。西田自身も答えを見いだすことができなかったのかもしれません。それでも『深き意味がなくてはならぬ』と言わざるをえないところに、愛する者を失った人の率直な、そして抑えがたい気持ちが表明されていると思います」と。

この「西田幾多郎 その人としての魅力 下」(藤田正勝)を読んで、千賀の帰天一年と重なって、身に染みるものを感じました。

創世記1章から11章による説教(2)

3月28日受難節第6(棕櫚の)主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう

(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。(イザヤ書55:6,7a)

③ 讃美歌    152(みめぐみふかき主に)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-152.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編118編19-29節(讃美歌交読詩編130頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  創世記1章26-28節(旧約2頁)

    (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  58(み言葉をください)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-058.htm

説教     「神に似姿」(人間の創造Ⅰ)  北村慈郎牧師

祈祷

 

  • 人間の創造について、創世記には二つの物語があります。一つは、今日の箇所である1章26-28節です。もう一つは2章7,18-25節です。この二つの人間の創造の物語は、資料が異なっています。創世記は複数の資料に基づいて編集されて作られていますので、二つの資料の異なった人間の創造の物語が記されているのであります。

 

  • そこで今日は1章26-28節の人間の創造物語が、何を私たちに語りかけているのかを、私なりにお話ししたいと思います。

 

  • 皆さんは、自分は何者であるとお考えでしょうか。もし自分が何者であるかを全く考えないで、本能と欲求の赴くままに生きるとすれば、私たちはある面で動物と変わりません。生物のとしての人間は哺乳類に属しますので、人間はまさに動物の仲間です。
  • 東浩之に『動物化するポストモダン』という本があります。2000年代初めくらいに出た本です。

 

  • ポストモダンという言葉は哲学思想分野ではよく使われていますが、みなさんにとっては、日常的にはあまり聞きなれない言葉ではないかと思います。ポストモダンの時代に関しては、様々な解釈が挙げられますが、一般的には、先進国に見られる、高度な資本主義経済と、高度な情報化社会で、そのような社会における、先行き不透明な現状と、その現状の中で社会等に絶望的感情を抱く状況を指します。

 

  • そういうポストモダンという時代、あるいは社会において、私たち人間は「動物化」しているのではないかと、東浩之は言っているのです。東は、「ポストモダン社会において、与えられたファーストフード化された消費財を動物みたいに食べる人間像」を指して「動物化」と言っています。

 

  • 連れ合いもがんになって召されるまでの1年半は、外に出て買い物をすることができませんでしたので、宅配の生協をはじめ必要なものを、ほとんどインターネットで購入していました。いろいろな物が、簡単に食べられるファーストフードのように、インターネット上に提供されていて、私たちはそれを買って必要を満たすわけです。その状況を、企業が付加価値を付けてみんなが欲しがりそうな物を次々に提供してくる、「与えられたファーストフード化された消費財を動物みたいに食べる人間像」を「動物化」として東は捉えているのです。

 

  • 今の時代や社会に生きる私たちには、そう言われてみると、確かにそういう一面があるように思うのです。もちろん、それがすべてではないのですが。

 

  • 「人間とは何者なのか」などと考えることもなく、ファーストフード化された消費財をパクパク食べて毎日生きている。実際、感覚的には、今はそういう人が多いのではないでしょうか。

 

  • 創世記1章1節から2章4節前半の天地創造物語の中で、他の動物と人間の違いが、今日の1章26節から28節の「人間の創造」の記事で書かれています。この記事には、「動物化された人間」ではなく、「人間化された人間」、そもそも人間とは何者なのかということが書かれているのです。

 

  • 26節前半を読んでみます。「神は言われた。/「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」。ここで神は自らを「我々」と言っていることで、聖書では神は唯一神なのに、「我々」というのはおかしいではないか、ということがよく問題とされます。しかし、この「我々」は複数の神を示すものではありません。「私」の強調語としての「我々」くらいに理解していただければよいと思います。

 

  • この26節前半からは、内容的に二つのことが言えると思います。一つは、人間は神によって造られた「被造物」であるということ、もう一つは、人間は「神のかたちに」、「神に似せて」造られた「神の似姿」だということです。

 

  • 神の「被造物」ということで、どのようなことが考えられているのでしょうか。

 

  • その前に、みなさんは毎日何に基づいて生きておられるでしょうか。聖書の神による人間創造について知らなかったり、何か宗教や呪術的なものを信奉していない場合、一般の人は、社会の法や慣習(因習)、自分の知識や感覚などに基づいて、自分が自分の中心・主体となって生きていると、言えるのではないでしょうか。

 

  • 人間が神の「被造物」と言う場合は、人間をつくったのは神で、人間は神に造られた存在なのです。

 

  • 陶器や彫刻にしても、絵画のような美術品にしても、その作品には作者の思いが込められていて、作品そのものは作者から離れてそこに存在しますが、作品は作者の表現を意味します。ですから、人間が神の「被造物」と言われる場合、私たちには神の思いが込められていて、私たちの存在は神の作品として神の表現を意味していると言えます。

 

  • 人間の主体は神で、人間は神の御業を表現している客体ということになります。

 

  • ところが、現実の私たちは、たとえ聖書の神による人間創造のことを知っていたとしても、神の表現者というよりは、自分が自分の中心・主体となって自己表現者自己実現者になっているのではないでしょうか。そのように生きることによって、私たちは神の被造物としての己自身を喪失してしまっているのです。

 

  • 秋田稔さんは、この神の被造性についてこのように語っています。

 

  • 【聖書でいっている被造ということの意味は、人間が先ず自分を尺度としてすべてを律することをやめて、神中心に生き、自分は一切を神に負うものにすぎないことを率直に認めることであろう。このことがわかることは、人間にとっては、その生活と思想の根本的方向転換を意味する。

一般に、人間が神を問題とするときには、結局は自分の側からみた神を問題にするのであり、人間を問題にするときにも、いわば自己理解の空転に終わるのであるが、この創造の信仰においては、神と人とは、全くその位置を変え、はじめて神が神としてあがめられ、人間はただ神の側からのみ自らを理解しようとするに至るのである。人間は、意志決断において自らの存在をうけとめるのであるが、人間を存在にまでよび出すのは神であり、その意味で先ず自らを被造的存在として自覚することが聖書における人間存在理解の糸口なのである】(『聖書の思想』)。

 

  • では「神の似姿」ということについては、聖書は何を物語っているのでしょうか。

 

  • 26-28節においては、この記者は、決して人間がどの点で神的であるかというようなことを論じているのではありません。この個所では、神が人間に地上の支配権を与えたことがしるされていますが、これは、神のかたちたる人間の尊厳の内容を示しているとみられます。人間の支配権が神のかたちという言葉であらわされていることは、人間の地上支配が、実は神の支配の代理あるいは代行であることを意味しているとみてよいでしょう。人間の尊厳は、神の尊厳にもとづき、それを表わすものです。人間は、神のよびかけにこたえて神の尊厳、神の栄光を表わすべく責任づけられ、使命を与えられたのです。

 

  • 地上を神に代わって支配するということは、開発ということで人間が勝手に用いていいということではありません。支配するという言葉の意味には、ただ支配するというだけでなく、羊飼いが羊を養うという意味もあると言われます。とすれば、地上を神に代わって支配するということは、私たちがこの地上である自然の秩序を整え、自然と共生することを意味するのではないでしょうか。

 

  • また、神のかたちに人がつくられたということは、誰か特別な人だけが神のかたちに造られたということではありません。この聖書箇所の記者はイスラエルの人たちがバビロニア捕囚期の時に、これを書いたと言われます。当時のバビロニア専制王国においては、王と人民は劃然とわけられていて、王の尊厳は高く立ちますが、人民は王の奴隷にすぎませんでした。しかし、この人間の創造物語では、この世の支配者は、あのバビロニアの王ではなく、神ヤㇵウェなのであり、地上の専制権力の奴隷からの民衆の自由、解放が、人間の尊厳の確立において、間接的に主張されているとみてよいでしょう。

 

  • このような見方においては、人間の僭越は徹底的に打破されているとともに、一方人間の尊厳が、謙遜にしかし責任をもって自覚されているのであります。人間は被造物にすぎませんが、しかし他の被造物と確かに異なっています。他の被造物が、つくられたということにおいて、神の栄光を表わしているのに対し、人間は、それにとどまらず、神の栄光を地上に表わすべく使命づけられていることに、その存在の意義がある、と言うのです。

 

  • 「男と女に創造された」と言われています「男と女」は、ここでは最初から「男と女」に造られ、性別を示しているだけです。しかし、2章の人間の創造物語は、最初に人であり男であるアダムが造られ、そのアダムのあばら骨から女が造られたと記されています。この2章の人間の創造物語には、男と女との間に序列を感じさせますが、一章の方には、それがありません。男も女も同じ神によって造られた存在であると語られています。

 

  • さて、私たち人間が、このような神の被造物として神の似姿に造られたという人間の尊厳を失って、自己中心的になると、私たちは動物化して、弱肉強食の社会を作り出して、お互いに奪い合い、殺し合う悲惨な現実を生み出さざるを得ません。現代社会の行き詰まりは、産業革命以後の近代から現代にいたる開発と競争の結果ではないでしょうか。

 

  • その意味で、今、私たちは、私たち自身の根本的な変革を求められているのではないでしょうか。もしその変革を遂げることができないとすれば、非民主的な社会の中で、地球温暖化による自然環境の破壊を止めることができず、人類の滅亡に至らざるを得ないでしょう。
  • だからこそ、今、私たちは、「神に常に新しく、私たちに、あなたのかたち、あなたの似姿に造られた者として、そのすばらしさを見ることによっていつも満たされることになる開かれた輝く目を与えて下さい」と祈らなければなりません。その開かれた輝く目もって、神に造られた人間らしく生きていきたいと、切に願います。

 

祈ります。

  • 神さま、今日は久しぶりに会堂での礼拝を再開することができ、感謝いたします。けれども、緊急事態宣言は解除されましたが、コロナウイルス感染者の拡大が各地に見られます。私たち一人一人が十分な感染防止に努めると共に、コロナウイルス感染拡大を防ぐ適切な対策が政府や自治体によって行われますように。またコロナウイルス感染拡大により困難を覚えている方々への適切な支援がなされますように。
  • 今日は棕櫚の主日で、イエスエルサレムに入城した日です。これからの一週間は受難週です。この一週の日々、イエスの受難と十字架の苦しみを想い起し、自らを振り返りつつ、過ごすことができますようにお導きください。
  • 神さま、今日は私たち人間とは何者なのかについて、創世記の1章の方の人間の創造物語から、その語りかけを聞きました。あなたのみ栄を表わすべく造られた私たち人間が、それを踏みにじって、いかに自分勝手生きているかを、世界の状況や日々に起こるさまざまな出来事を通して思わされています。神さま、どうか私たちに、あなたによって造られた者として、それにふさわしく生きる力を与えてください。そのために、私たち一人一人に、あなたのかたち、あなたの似姿に造られた者として、そのすばらしさを見ることによっていつも満たされることになる開かれた輝く目を与えて下さい。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌    223(造られたものは)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-223.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。