なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

はじめまして。

 昔仏教の僧侶は辻説法というものをしていたと言う。もう既に他界してから大分経っているが、キリスト教徒ではない私の父親が生前牧師である息子の私に、「お前は宗教家として辻説法はしないのか?」と言ったことがあった。その父親の言葉が気になり、何かしなければと考えてきたが、今更辻説法(キリスト教では「路傍伝道」)でもあるまいと思って、ずっと自分の内に私に対する問いとも思えるこの父親の言葉をあたためて来た。私は、「宗教家である牧師のくせに、この世に打って出ねえのかよー! おメーはただのだら幹牧師なのかよー!」という非難とも思える冷たい視線を父親の言葉から感じて来た。
この私の父親は若いときには川上三太郎の現代川柳社に属していたようで、現代川柳家でもあった。父親の句は、西脇順三郎に影響されてか、シュルレアリズムっぽい句が多く、私にはよく分からない。ただ一つだけ戦後シベリアに抑留されている人達のことを想像して読んだと思える句は、私も好きな句である。
「北風に柿が某戦犯の夢を描いた」

ということで、ブログをやってみようと思った。日常の中で「牧師(ポクシ)」である私が考えたことを、気まぐれに、日記風に書いてみようと思う(以前誰かが「牧師」を「ポクシ」と言った)。そして、これが私なりの辻説法となれば、墓場の父親にも顔向けができるのではと、密かに甘い考えを抱いている。

さて、ライブドア問題で国会審議があり、小泉さんが答えているところをテレビが放映していた。ホリエモンを、昨年9月の衆議院選挙で、広告塔の一人として担ぎ上げた自民党を批判する民社党の議員の質問に、小泉さんが答えているところである。メディアに責任を転嫁し、ちっとも自分で責任を取ろうとしない小泉さんの手法は相変わらずだ。
この論法はキリスト教信仰の中にもある。メディアを神に置き換えれば、神に責任を転嫁して、自分の責任を放棄しているかに思えるクリスチャンは多ように見える。クリスチャンだけではなく、何らかの宗教に帰依している人の中にありがちな傾向ではないか。宗教に関わる者は、娑婆の責任を取らないで、彼岸の天国に逃げ込んでいる。そういう批判は昔から言い続けられてきたのである。
ナザレのイエスの場合は、神の思いを汲んで、誤解を恐れずに言えば、人間イエスが神のように語り、行動しているように思える。このイエスのあり様は、神を信じ、神なしに、まったくただのひとりの人として全責任を引き受けて生き、そして死んだ人のあり様である。イエスの魅力はそこにある。
エスをキリスト(神)に祭り上げてしまったキリスト教は、自分も神に近くあるという錯覚によって、ただの人たちを抑圧・圧迫してきたのだ。ブッシュのキリスト教ナザレのイエスとは無関係である。人間の側が造り上げた宗教の一つである。

最初なので、ちょっと力が入ってしまった。以後は軽い調子で行きたいと思っている。ただ根がまじめなので、そうでない時もあるかも知れない。乞ご容赦。