なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

歴史認識

昨日は私が牧師をしている教会で月2回行っている聖書研究があった。この聖書研究会では大分前から旧約聖書の歴史書の部分を学んでいる。今はサムエル記上を読み進んでいる。昨日は12章を扱った。この部分は預言者「サムエルの告別説教」などと言われ、カリスマ的な指導者がイスラエルの民を導いていた士師時代から王国時代へ移行するその転換点に、退いていくサムエルが最後に語った語りである。サムエルの後には、イスラエルの民にとってははじめての本格的な王サウルがイスラエルの民を導くことになる。

このサムエルの語りの中に、イスラエルの先祖の歴史が想起されるところがある。そして、そのイスラエルの過去の歴史に現された神の救いの御業が語られる。そのことによって神ヤハウエのもとにあるイスラエルの民のアイデンティティーが強調されているのである。それは、申命記史家という歴史家のイスラエルの民の歴史に対する歴史認識でもある。

一つの民は共有する歴史を持っている。その共有する歴史をどのように解釈するかによって、同じ一つの民であっても分かれるのだ。その分裂の基本形は、共有する歴史を上から解釈するか、下から解釈するかにある。上からとは権力者や富者の側から、下からとは貧しい民衆の側から、特にその社会の中で疎外されている人々の側からである。

サムエル記上によると、サウルは下から求められて王となった。しかし、王となってから下を圧迫する上からの抑圧者とならなかったかと言えば、抑圧者になってしまったのではないか。

日本の歴史を我々は下から語り継ぐことをしてきただろうか? 明治以来の富国強兵・和魂洋才は権力者・富者によって造られた歴史であり、その歴史認識である。それに代わる下からの歴史とその歴史認識が我々の中にあるだろうか? 

サムエル記上を読みながら、そんなことを考えさせられたのである。