なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

イエスの母マリア

私は、来年3月末で今働いている教会の牧師を退任します。そこで今年一年は、説教でイエスについて話そうと思って始めています。第1回は「イエスの母マリア」について話しました。以下が、一部割愛していますが、その時の説教の内容です。これからの説教も、少し長くなりますが、このブログに時々書き込んでいきたいと思います。
 
エスの母マリアは、カトリック教会では、神の母性の象徴として「聖母マリア」として崇拝の対象となっています。現代のカトリック教会では、「『聖徒の交わり』(筆者註、教会)の中で、あたかも神の子らの家族の中で母親のように、地上を旅する信仰者とともに祈り、助けるものとして理解されている」(岩波キリスト教辞典)そうです。
 
けれども、福音書のイエスの物語に出て来るイエスの母マリアは、必ずしもそのような「聖母マリア」の姿を思わせるような女性ではありません。むしろイエスとマリアの間には、私たちの中にもよくあります子と母との葛藤のようなものがあったようです。病人を癒し、悪霊を追放して、人びとの間で評判になっていたイエスを、母マリアはイエスの兄弟姉妹たちと共に、家に連れ帰ろうとして、イエスのところにやってきたというのです。イエスの周りには大勢の人がいたので、マリアは人をやってイエスを呼ばせました。その人が「ご覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らせると、イエスは「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟があり。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言ったというのです(マルコ3:31-34)。
 
しかし、ルカによる福音書のイエス誕生物語は、また違った姿のマリアを私たちに伝えてくれます。特にマリアの賛歌のマリアは神のみわざにたいする積極的な信仰を言い表しています。その言葉は極めて能動的です。特に51節以下は特にそうです。そこには、私たちの人間社会に厳然としてある権力関係や貧富の差を根底から覆す神のみわざが語られています。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、/飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます」(ルカ1:51-53)。
 
一方同じルカによる福音書のイエス誕生物語の中の「受胎告知」におけるマリアは受け身のマリアです。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(1:38)と、受胎告知を告げる天使ガブリエルに、マリアは最後に答えています。ここでのマリアは、神のみわざが自分の身において成るようにと、自分の全存在を神に明け渡しているのです。マリアの賛歌の中では、前半の部分にそのようなマリアの姿が現れています。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」(1:47-50)。
 
「このわたしに」神は「目を留めてくださった」「偉大なことをなさいました」とマリアは語っています。このように語るマリアは、彼女を通して神御自身が働いていることを言い表しているのです。人が神によって造られたのは、神の慈しみの素晴らしさが人を通してこの世界に表されるためでした。アダムとイブは、神に造られた者として、互いに愛し合うことによって神の素晴らしい愛の豊かさを生きることが求められていたのです。しかし、二人は自分が神のようになるという誘惑に負けて、神に代わって自らを自分の中心に据えて歩む人間になりました。それ以来、わたしたち人間は、神のみわざがわたしたちの身において展開することよりも、自己実現を求めてさまよう者になってしまったのです。
 
受胎告知のマリアは、本来の私たち人間の姿を教えてくれます。このわたしを、神が目を留めてくださり、このわたしにおいて、神が偉大な御自身のみわざをなしたもうということです。マリアは神に対して徹底的に受け身でしたので、人間社会にある権力関係や貧富の差を根底から覆す神の能動的なみわざを信じ、それにかけることができました。このマリアの受動即能動のあり方が、信(信仰)にかける者の実存ではないでしょうか。
 
自己実現を求めながら、プラスアルファーを信に求めす者の信仰は、中途半端ですし、どこかに神を自分の方に引き寄せて受け入れようとする、卑しい思いが見受けられます。イエス誕生物語のマリアは、神の前に徹底的に受け身です。自分を神に明け渡し、神のみ業が自分を通して具現することを一心に願っているのです。これこそ、メタノイア(悔い改め)=方向転換としての信仰ではないでしょうか。
 
このルカ誕生物語のマリアはイエスの先取りとして描かれていると言われます(荒井献)。神は今もご自身のみ業を展開すべく、マリア(=イエス)のような信をもって神に従う人の出現を待ち望んでいるのではないでしょうか。
                   (2010425日礼拝説教より)