なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

戒規免職処分

       以前このブログで、私は、所属する日本基督教団から「教師退任勧告」を受けたことを書きました。実は、その後展開がありまして、本年126日付で、私のような教会の牧師の戒規処分を諮る委員会によって、私は「戒規免職処分」を受けました。
       私は、それを不服として214日付で議長に上告しました。私の上告を受けて、教団議長は常議員会に諮り、審判委員5名を選任しました。その審判委員会から、317日付で手紙をもらい、戒規免職を不服として上告している私に、413日までに審判委員会委員長に「上告理由書」を出すように言ってきました。さっそく私は上告理由書を書き上げ、この問題に対応するために教会の対策委員会の方々に見てもらい、いろいろご意見を伺いました。その意見を参考にして、書き改めた「上告理由書」を、410日に郵便局にもっていき、親展で審判委員長宛投函しました。
       これで戒規免職に対する直接的な私の対応は、ほぼ終えたことになります。後は審判委員会からの呼び出しがあれば、直接私の考えを述べさせてもらいますが、呼び出しがあるかどうかは分かりません。
       今後できることは、秋の教団総会に向けて私の戒規免職問題を教団の諸教会・伝道所、信徒・教師に広く知っていただくこと。聖餐の問題を教憲・教規違反として法的に問題にすること自体、教会としてはいかにおかしなことであるかということを訴えていくこと。そして、私を戒規免職処分にした教師委員会の決定が、教憲・教規解釈においても、手続き上においても、いかに不当なことであるかを分かってもらうことではないかと思っています。
       さて、『福音と世界』5月号の「神学の履歴書」の中で、佐藤優さんは「日本基督教団で起きている聖餐論争について」書いています。
       佐藤さんは、「日本基督教団で起きている聖餐論争に関して、筆者は実にばかばかしい騒動と思う。聖餐に未授洗者を参加させるか否かは、個々の教会と牧師の判断に委せればよい」。自分は日本基督教会の伝統で育ち、神学校時代改革派系の神学に惹きつけられたので、洗礼を受けた者が聖餐に与るべきだと思うが、同志社の神学部と大学院時代通っていた教会では、「開かれた聖餐式」が行われ、未受洗者も聖餐に与っていた。
       「その牧師が信仰的良心に基づいて聖餐式を執行し、教会員がそれに文句を言ってなければ、それでいいのである。日本基督教団のよさは『いいかげん』なところにある。それを現在の教団執行部が、ソ連共産党のような『鉄の規律』で、牧師や教会を律しようとしていること自体が大問題だ」。
       そう述べて、佐藤さんは、自分は現在「見えない教会」のメンバーであるという意識を持もっているが、「実を言うと、日本基督教団の教会に籍を置いて、『見える教会』での教会生活を再会しようと思っていたのだが、本誌に報じられた聖餐騒動に関する記事を読んで、再び教会に行く気が失せてしまった」というのです。
       そして、「キリスト教の本質は救済宗教だ。イエス・キリストを信じることで、救われると確信することを重視すべきだ。信仰の問題を処分や統制などの行政的手法で解決しようとする宗教団体は、突き放して第三者的に見ると、宗教的生命が枯渇しかけている。末期症状を示しているということだ。」と、極めてまともで適切な論評を加えています。
       教団の中に、佐藤さんのような認識が広がっていくとよいのですが。自らの「宗教的生命の枯渇」は、自らの変容によって克服する他ありません。私は、今の日本のキリスト教は総体として耐用年度が過ぎたと、前にブログで書きましたが、私自身、佐藤さんに言われるまでもなく、「宗教的生命の枯渇」は深刻だと思っています。反面、ダメになるものはダメになればよい、という思いもあります。強いて「護教」に走る必要はありません。
       エスがもたらした「福音」は、そういう廃墟の中から、人々の魂をとらえ、また新しい流れを創り出していくに違いないからです。