なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信№12

船越通信№12   2011年6月26日     
 
  619日の日曜日は、5人で礼拝を行いました。一人は途中から礼拝に参加しましたので、最初は4人でした。私としても4人の礼拝ははじめての経験でした。しかも礼拝の最初の讃美歌がヒムプレーヤーの演奏ができなくて、ヒムプレーヤーが壊れたのではと思って、アカペラで讃美歌を歌いました。何とか歌えたものもありましたが、一つの讃美歌はなかなか音が取れなくて斉唱なのに音の外れた合唱のようになってしまいました。それでも最後まで歌いました。さて、ヒムプレーヤーを壊れたものと思って、23日の鶴巻から船越に来る時に横浜キリスト教書店に修理を頼みに寄りました。書店で持って行ったヒムプレーヤーをコンセントにつなぎ、こういう状態ですと言って、0・171を押しました。音がでません。でしょと、書店の人に同意を求めました。念のために1・285を押してみましたら、ヒムプレーヤーは演奏します。0・58も演奏します。0・171は曲がヒムプレーヤーには納められていなかったのです。私の早とちりでした。日曜日にはAさんとBさんも一緒にいて確認したのですが、最初の0・171が演奏しなかったので、ヒムプレーヤーそのものが壊れてしまったと3人とも思ってしまったのです。人間って面白いですね。こんなものなのでしょう。思いこむと、なかなか冷静な判断ができなくなってしまうものです。
  619日の礼拝後に、私は神奈川教区のオリエンテーションの準備のために、予定していた紅葉坂教会牧師就任式を連れ合いに代わって出てもらいました。船越教会からはHさんに行っていただきました。オリエンテーション25名ほど参加し、神奈川教区事務所の2階の狭い会場で行いました。例年第一回は教区形成基本方針と教区の諸制度および組織についてのガイダンスです。今回I議長は諸制度の説明に多くの時間を使い、教区形成基本方針については、肝心の対話の姿勢を貫くことが神奈川教区の歴史の中でどのように起こったのかについてだけ一言話してくれました。質疑と協議の時間の中で、教団の信仰告白をめぐって参加者と委員の間でちょっと激しい議論がありました。かつての神奈川教区では教団の信仰告白を否定した者も排除しなかったという事例を教区形成基本方針との関わりで委員の一人が紹介しました。それに対して、この4月から神奈川教区の一教会に赴任してきた一人の教師が教団は教団の信仰告白で一致しているのだから、信仰告白を否定した人も一緒というわけにはいかないのではないかと、強く主張しました。自分は教団の信仰告白をして受洗したので、教団の教会は教団信仰告白で一致しなければ、教会として成り立たないと思うと。参加者の中には旧組合教会の伝統をもつ教会で洗礼を受けた人もいて、自分は教団の信仰告白を告白して洗礼を受けたのではなく、自分の信仰告白をするようにと言われ、自分の信仰告白をしてその教会で洗礼を受けたという人もいました。正に合同教会としての日本基督教団の実態です。また、教団の信仰告白は戦時下の教義の大要に基づいてつくられたもので、国家への妥協の産物で、信仰告白が本来持っている主体性が希薄である。その時代や場所において絶対的な服従をもとめてくるかつての天皇制のような力に対して、はっきりとそれを否定し神をのみ神とする信仰の主体性が教会の信仰告白にはなければならないとすれば、現在の教団の信仰告白はその主体性において欠けていることは確かです。そもそも信仰告白は複数あってもよいし、時代と共に新しく書き換えていく必要があるのではないか。その意味で1954年につくられた日本基督教団信仰告白を絶対化してはならないという意見も出され、教団の現実は教団信仰告白によるスタティックな一致には程遠く、教団信仰告白をめぐってダイナミックな議論が起こり、既にある教団信仰告白における一致ではなく、一致を求めていくそのプロセスに合同しつつある日本基督教団アイデンティティーがあるように思いました。
  619日の礼拝説教ではマルコ福音書21-12節の4人の友人によってイエスの下に運ばれてきた中風患者の癒しの物語を扱いました。まずイエスは、4人の友人に仲間の中風患者をイエスの下に連れて行って癒してもらおうという信仰を呼び起こすほどの信頼に満ち満ちた方であるということ。ヨハネ福音書の言葉を借りれば、イエスは「めぐみとまこととに満ちた」方であるということです(1:14)。イエス4人の友人によって連れて来られた中風患者に、まず「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。罪が赦されるとは、神と隣人との関係が的外れになっていた自己中心的な人間が、神と隣人との関係を回復したことを意味します。まことの人間回復であります。この中風患者は、神と隣人との関係に徹底的に従順に生きられたまことの人(神の子ども)であるイエス人間性を、罪赦されることによって与えられたのです。次にイエスは、この中風患者に「わたしはあなたに言う。起き上がり、床をかついで家に帰りなさい」と言います。罪の赦しは、その人を健康体にするのです。健康体とは強健な身体ということではありません。いくら強健な身体が与えられていても、神と隣人を踏み倒して平気でいる人もいるでしょう。健康体はその身体をもって神と隣人に仕えて生きる人の生きざまではないでしょうか。