なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(3)

「よい知らせ」 イザヤ書52:7-10、マルコ1:14-15、
 
  マルコによる福音書1章14-15節(新共同訳聖書)
 【ヨハネが捕らえられた後、イエスガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。】
    
    マルコは、イエスの宣教活動が「ヨハネが捕らえられた後」始まった、と記しています。荒野に出現し、人々に悔い改めを宣べ伝え、「罪の赦しを得させる」バプテスマヨルダン川でほどこしたヨハネがヘロデとヘロデヤの不正結婚を糾弾したため、ヘロデに逮捕されました。権力に対して毅然とした態度を持ち、悔い改めを叫ぶヨハネの存在は、人々の良心を鋭くえぐり、それ故に人々はヨハネに大きな期待をかけました。しかし、ヨハネが厳しくヘロデの不義を糾弾し、正義が実現するかに見えた時、ヘロデによってヨハネは捕らえられ、首を切られてしまったのです。人々は、不正義が支配する世はやはり変わり様がないのかという絶望に支配されたかに見えました。一旦燃え上がり、輝いたかに見えた明かりが、たちまち消え落ちてしまったようでした。「ヨハネが捕らえられた後」とは、そのような状況を指しているのであります。そのような時にイエスの活動が開始したとマルコは語っています。
    けれども、もっと本質的なことが、ここには言われているのではないでしょうか。つまり、バプテスマのヨハネの出現~逮捕~イエスの活動の開始という一連の出来事を通して「時が満ちた」ということがいわれているのです。
    一日一日、一時一時をわれわれは生きています。そういうわれわれが生きている「時」というものは、クロノスなのです。今年は2011年です。今日は5月15日です。明日になると、今日という日は既に過去になってしまいます。「時というものは、毎日毎日、新しい時が出てきますが、しかしそのひとつひとつはなくなってしまいます。死んでしまうのです。こうしてわたしたち全てはやがてまた死の中に過ぎ去ってしまいます」。
    バプテスマのヨハネの時代=イエスの時代によって考えてみますと、このクロノスの中に、ヘロデ・アンティパスが、ロ-マの官憲が、大土地所有者が、大祭司や祭司たち、長老たち、パリサイ派の学者たち、民衆、その中でも罪人や取税人と呼ばれて差別されていた人たち。あるいは色々な分派、~洗礼集団~の人たちがいたわけです。権力や財力をにぎっている人たちは、それを守るためにやっきとなっていたでしょう。一時的にしろ、物質的安定が得られたら、その地位を失いたくないと考えるのは、しごく当然のことだからです。宗教家や学者たちも、彼らの働きが、何を人々にもたらし得ていたかはともかく、自らの働きに対する誇りが彼らを支えていたに違いありません。多くの民衆は生きる糧を毎日あくせくしながら稼ぎ、一見平凡な日々を生きていたでしょう。セクトの人たちはそれなりに確信をもって生きていたでしょうが、彼らから全ての人にとって積極的な何かが生まれる可能性は見えませんでした。そのような中で嘆き悲しむ人々がありました。病める者、差別されている者たちです。
    みな、クロノスという時のもとに生活していました。現在が過去へと消え去ってゆく中に。すべてが死へとのみこまれてしまう時の中で色々な改革は起こったでしょう。しかし、クロノスの運命を変える根本的変革は、いまだかつて起こったことはありません。そのような中で、ヨハネが現われ、「悔い改め」を呼び掛けました。彼は人間の全面的方向転換を迫ったのです。将に来たらんとする時を待てと。それは現在が過去に消え去ってゆく時ではなく、現在を究極的に完成へと引き上げてゆく将来を望み見ることです。神の時、神が将に来たらんとする、その時に向かって準備せよと。その叫びをもって、ヨハネは「待望」へとわたしたちを導いたのです。その限りにおいて、「ヨハネより大きい人物」はありません。ヨハネが叫んだ「悔い改め」は、わたしたちの歴史に、このわたしたちの生活に、ある根本的に欠けたものがあることを示しているのです。神を待ち望むということです。
    バプテスマのヨハネは「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」(1:7)と語ります。
    しかし、ヨハネはわたしたちを「待望」へと導きましたが、何を待ち望むのかは、知りませんでした。神へと向きを変えることは叫びましたが、その神がどのような方としてわたしたち中に来たりたもうかは知りませんでした。「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現われなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」(マタイ11:11)と言われるゆえんであります。
  彼は、古い時が終わらなければならないこと、新しい時に全身を向けてゆかなければならないことを知っています。まず何を期待し、何を望まなければならないかを、そしてそのために道備えを彼はしたのです。「ヨハネが捕らえられた後」は、そのような待望が成就に変わる時を示しています。
    「イエスガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』」(1:14、15)。
    待望はどのような成就を見たのでしょうか。イエスの出現は、来るべき神の到来そのものですから、わたしたちは、イエス以外のどこにおいても、将に来らんとする神ご自身を期待することはできません。超越的な仕方で、一切が一瞬にして変わるような神の到来を期待するのは幻想に過ぎません。「大工のせがれ」に過ぎないではないかと、故郷の人々から馬鹿にされた、あのナザレのイエスが、わたしたちの歴史の中への神の介入なのです。ヨハネが悔い改めを叫んだ荒野ではなく、ごく平凡なわたしたちの日常性を象徴的に示しているガリラヤが、イエスの宣教の場となったのです。あの死に極まるクロノスという時間の只中に、イエスが到来したのです。「時は満ち、神の国は近づいた」という宣教のことばをもって。
    「時がみち」の「時」はカイロスとう言葉が用いられています。これは同じ時ですが、クロノスとは違います。瞬間、チャンスを意味する時です。ティリッヒは、「カイロスは<永遠が時間的なものを揺り動かし、変容せしめつつ、また人間存在の深みに危機をもたらしつつ、時間の中に突入してくる>時間における顕著な瞬間である」。そして、その瞬間は、「<歴史によって期待され準備されたものを満たしつつ>やってくるので、<時は満ちた>と言われるのである」と言っています。
    永遠とは、何でしょうか。神の国とは。聖書は、そのことについて思弁を弄することはいたしません。永遠の命や神の国に直面している人間の態度を語っています。イエスの生涯とその宣教(教え)とから推察しますと、永遠や神の国の内実は、「完全な愛による生の共同」(宮本武之助)~自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい~と思われます。イエスが教えを語り奇跡を行なわれる、そのような総体としてのイエスの行動が目指しているのは、わたしたちを「完全な愛による生の共同」に招くことにあります。病気や悪霊につかれた者の治癒において、最後に社会への復帰が勧められているのは、共に生きることへの招きであります。ですから、神の国はどこにあるかという人々の問いに対して、イエスは、ここにある、あそこにあるというのではなく、「あなたがたの只中に神の国はあるのだ」、つまりイエスと共にわたしたちが互いに仕え合う生活をする(それが教会)、そのことを抜きにして、どこにかに神の国を探してもどこにもないのであります。
    神の国が近づいた」という時、そのような「完全な愛による生の共同」としての神の国が向こうからわたしたちの中に到来する。創造的な力をもって。人間の側にはそのような創造的な力はありません。「悔い改めて、福音を信じなさい」とは、現在を将に来たらんとする神の将来から生きよ、ということです。イエスにおいて将来に望んでいるものを現在信じて生きるのです。そして、現在信じているものを将来に望むです。この現在と将来の緊張関係の中でわたしたちはイエスと共に生きるのです。その時、わたしたちはクロノスの支配から自由となって行くでしょう。
    以前名古屋の教会にいたときに、信徒のお嬢さんがガンで亡くなりました。42才でした。卵巣がんの手術をし、3年後に再発で再び手術を受けましたが、手遅れで、その後自宅で過ごされて、お母さんや妹さん夫妻、知人の方々の献身的な看護を受けて、激しい苦しみの中にも、ありがとうと言って死んでゆかれました。わたしはその方が亡くなられてから葬儀に関わったのですが、そこで一つの大変大きなことを教えられました。それは愛が死にかつということです。このことは、パウロもロ-マの信徒への手紙8章38節以下にもはっきりと記されています。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちのキリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。このことは、このことを信じる者たちによって実証されていくのでしょう。娘への母親の愛、姉妹の愛、知人・友人の愛によって、末期ガンで苦しむひとりの人が、病いとその苦しみを引き受けている孤独な闘いの中で、自分のために命をけずってくれる他者の存在を通して愛されている己れを確信することができるのだと思います。そのような愛によって結ばれた絆の力は、ガンと死によっても断ち切られないのです。わたしは、パウロが言う「キリスト・イエスによって示された神の愛」を、具体的にそこに感じました。
    マルコが1章15節で「時が満ちた」と言っているのも、同じことではないでしょうか。死に打ち勝ったイエスの命とは、この神の愛の力ではないでしょうか。そして、神の愛が究極的にわたしたちの全ての現実を支配していることを信じ得るとするならば、わたしたちはこの問題と苦しみの多い地上の生活におきましても、それにもかかわらず希望をもって生き抜くことができるのではないでしょうか。