なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

牧師室から(9)

 今日は、以前に教会の機関紙に書いていた「牧師室から(9)」を掲載します。
 
                  
                 牧師室から(9)

 九月末に夏休みの後半をもらい、信州上田から一時間ほど松本方面に入ったところにある鹿教湯温泉の小さな宿で三泊四日を一人で過ごしました。一人でゆっくり考えたかったからです。ただ一つだけ行きたい所がありました。戦没画学生の絵が展示されている無言館です。無言館には、鹿教湯温泉からバスで上田電鉄下之郷駅まで行き、上田電鉄に乗換え塩田町駅下車バスで行くことができました。三日目の朝宿を出て午前十一時には無言館に入れました。二時間ほど絵や遺品を観ることができました。ただ次々に来館者があり、中には団体で大きな声を出す人もいて、係りの人に注意される場面もありました。そういう点では、ゆっくり静に思い巡らしながら鑑賞することはできませんでした。でも、前から一度是非来たかったところでしたので、自分として貴重な時間を過ごせたと喜んでいます。無言館を観た後、信州の鎌倉と言われているこの地域に点在するお寺を幾つか訪ねて、別所温泉駅から来た道を戻って宿に帰りました。さて、無言館を観ての私の想いは複雑でした。この無言館を開設した館長窪島誠一郎の言葉、それぞれの画学生が遺した「一枚の絵」には「私たちに告げたかった言葉」があり、その「絵のせつない叫びに耳を傾け」ないまま戦後の五十年間を過ごしてきた私たちの怠慢への侘びには共感できます。だがその上に、私には従軍した画学生の絵の向こう側にいる無辜のアジアの人々の涙と叫びが迫ってくるように思えてなりませんでした。
                                    (2005年10月)

 私は一九五九年十二月二十日のクリスマスの礼拝で古い木造の会堂でしたが、当時の紅葉坂教会牧師平賀徳造先生から洗礼を受けました。高校三年生でした。高校一年生だった連れ合いもその時一緒に洗礼を受けました。私が紅葉坂教会に来るようになったのは、その年の十一月の最初の日曜日からでした。僅か一ヵ月半の求道で洗礼を受けることを決め、それを平賀先生が受け止めてくれたことが不思議です。関東東学院三春台の同級生S君に誘われたのがきっかけです。今から考えますと、教会の礼拝に出ようと思った自分の内的な動機は、母の病気と父が責任を持っていた会社の倒産により大学進学をあきらめて、行き場の見えなかった自分の心の暗闇を紛らわそうとしたかったからだったように思います。会社倒産後数人と始めていた父の仕事を高校在学中から手伝っていましたが、卒業後もしばらく続け二十一歳の時に東京神学大学に入学し、牧師の道を歩むことになりました。
 洗礼を受けたクリスマスのイブの夜、はじめてのキャロリングを体験し、アパートの一室を自分の部屋として使っていたS君の部屋で夜を徹して話したように記憶しています。その年のレコード大賞は確か水原弘の「黒い花びら」でした。低音でどすのきいた声が魅力的でした。僕も真似して歌いましたが、一部音程がどうしても狂ってしまうのです。それ以来S君は僕が「音痴」だと言います。はじめてのクリスマスの思い出です。
                                   ({2005年12月}

 今月号の教会だよりには、Hさんの説教と講演(セクシュアル・ハラスメントがテーマ)のまとめが掲載されています。私は、本Hさんの説教と講演から、年を重ねて来て現状に居直りがちな自分を鋭く問われる思いがしました。特に強制異性愛社会の仕組みに無自覚なままに生きている自分があるのではないかという問いを突きつけられました。セクシュアル・マイノリティーやセクシュアル・ハラスメントが起こる温床として、既存の社会とその社会の仕組みに安住していられる人たちの存在があると思います。そこが変わっていかなければ、この問題の本当の解決はありません。しかし、それを変えて行くことは、全体としては至難の業です。そうであるがゆえに、自分の責任をも曖昧にして行きかねない私がいます。そういう自分の在り様が鋭く問われました。
 イエス福音書によれば神の国を宣べ伝え、わたしたちのただ中に既に開始し、私たちの中に在る神の国にふさわしくその生涯を生き抜かれた方ではないかと思います。イエスの前に現れたバプテスマのヨハネは、イエスのために「道を整え、その道筋をまっすぐに」するために来たと言われます。それは、高い所を低く低い所を高くして、平らにするためだと言います。言葉を換えて言えば、誰をも「差別排除」しないということではないでしょうか。イエスにあって誰をも差別排除されない現実の到来とその完成を信じ、生ある限り、差別者としての自己を問い続けていきたいと思います。 
                                   (2006年2月)

 五月に開催された役員懇談会と六月の役員会で承認を得て、私は今後二つの新しいことに取り組んでいきたいと思っています。
一つは、二00七年度の牧会方針にも挙げておきましたように、「宣教企画運営委員会」を立ち上げ、「共生と自立の場としての教会」という宣教「基本方針に即した今後の教会の宣教のあり方を考え、具体的方策を立て、取り組んでいく」ことです。もう大分前から私たちの教会に対する批判として「教会のサロン化」という指摘があります。私たちの教会は仲間同士の内に閉じた仲良しグループに過ぎないのではないかという批判です。それに対して一九八0年代から「(社会に)開かれた教会」を掲げて、私たちの教会はこの社会の中でさまざまな痛みを抱えている方々との繋がりを大切に、信徒各人がその置かれた場で課題を発見し、それぞれの働きを担うようになってきたと思います。その方向を教会としてより確かなものにしていくために、宣教企画運営委員会が教会員から意見を聞きながら知恵を出し合って、イエスの福音にふさわしい「最も弱い立場に置かれた者の視点を大切にじて教会の宣教を考え、その課題を担う」教会建設に努めたいと願っています。
もう一つは、みなさんに働きかけて日本基督教団の歴史を学ぶ機会をつくることです。私が発題をして、学びあい話し合う会を隔月くらいに開いていきたいと思っています。二度と再び私たちの教会が戦争協力の過ちに陥らないために。
                                      (2006年6月)

(上記の課題は、残念ながら課題提示だけで終えました。ちょうどこの課題提示がなされたときに、私の再任問題が教会の中に発生し、また教団レベルでは私の教師退任勧告から戒規免職問題が起こり、私個人としても教会としてもこの問題への対応に時間と労力を傾けなければなりませんでした。そうこうしている内に私の牧師任期が終わり、M教会を辞任しました。そのために上記の課題提示を深めることができませんでした。ただもし仮にこの課題をM教会のような現住陪餐会員約250人規模の一個教会の中で深めていったとするならば、合意形成が困難で途中で挫折するか、教会の中に分裂を顕在化させることになったかも知れません。これは仮定の話ですが。)